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宮澤賢治論
詩誌「ERA」第21巻 (2023.4) 掲載


宮澤賢治と戦争



 詩誌「ERA」第一次の頃、仙台で合評会を催した際に、ゲストとして尾花仙朔氏をお迎えした。懇親の折に尾花氏は宮澤賢治にふれて、夭折のため免れたが、永らえていたら賢治もまた、戦争へと邁進する国家に対し賛同する立場を表明していただろう、と語られた。その言葉はもう少し踏み込んだ内容だったが、その厳しい口調は記憶に残っている(ただし批判は宮澤賢治自身よりも、むしろ賢治を持ち上げて聖人化した周囲の人々に向けられたものだった)。その後、長野詩人会に招かれての講演で、賢治の「北守将軍と三人兄弟の医者」を取り上げる機会があった。その内容は大学でドイツ詩の講義においても用いてきたが、先日埼玉での講演において、今一度切りつめた形で話をした。時節にふれて、宮沢賢治と戦争との関わりについて語ることとなった。

 ドイツ詩の授業でなぜ宮澤賢治かというと、賢治はドイツ文学との関わりが深いからである。作品中にドイツ語が頻繁に出てくる(詩「春と修羅」のZYPRESSENなど)。上京してドイツ語を学び、アンデルセン『絵のない絵本』もドイツ語で読んだ(「アンデルゼン」とドイツ語発音をしていることから分かる。傍点筆者)。賢治がメルヘンというジャンルに接して、いわゆる童話創作に励む契機の一つをそこに見ることができる。「土神ときつね」では、ハイカラな狐が(イェーナのレンズメーカー)「ツァイスの望遠鏡」に言及したり、「ハイネの詩集」を勧めたりする。狐が装う教養の源は「独逸」らしい。賢治の時代、様々なドイツ詩が紹介されていたが、生田春月が『ハイネ詩集』を出版したのは一九一九年。翌二〇年以降全集も刊行される。それには『ロマンツェーロ(譚詩)』も含まれていただろう。ドイツ文学史を辿ると、各時代に譚詩(物語詩Ballade)が記されている。ハイネの「ロウレライ」、遡ってゲーテの「野ばら」、短いがいずれも譚詩である。ゲーテは譚詩が、叙事詩、抒情詩、劇詩の三ジャンル全ての萌芽を含むと述べている。ゲーテ自身が「魔法使いの弟子」とともに「メルヘン」をも記しているように、譚詩とメルヘンはいずれの時代にも併行して作られた。両者の隔たりとは、韻文か散文かの違いがあるだけである。――日本では近代詩の初期に落合直文「孝女白菊の唄」など譚詩作品の例はあるが、次第に詩作の中心を抒情詩が占めるに至る。宮澤賢治の筆からは、もっぱら口語詩と童話(メルヘン)が著されたが、この両者の関係について興味深い視角を提示する作品がある。「北守将軍と三人兄弟の医者」がそれである。

 まず簡単にあらすじを記す。――ラユーという町の外に大軍勢があらわれ大騒ぎになる。これは、実は昔この町から進軍していった軍隊で、三十年後に帰ってきたのだった。それを知って町中が大喜び、王様も早速大臣を出迎えに遣わす。しかし、ソンバーユー将軍は砂漠で三十年間馬と一心同体で過ごしたために、身体が鞍にくっつき、鞍は馬にくっついてしまったため、馬から下りて挨拶ができない。それを見た大臣は、これは謀反だと逃げ帰ってしまう。城に上がって王様に謁見するためには、早くなんとかせねばならない。将軍は、医術に優れたこの町の三人兄弟の医者に助けを求める。一番上の兄は人間の医者、二番目は動物の医者、下の弟は植物の医者だったので、三人は次々に将軍を診て、手を施す。こうして将軍はようやく王様を拝謁することができたが、王様が授けようという栄誉を将軍は辞退する。代わって三人兄弟の医者を推薦したので、三人はその伎倆に相応しい名声を得ることになる。その後、将軍は一農民として暮らすが、やがて人々の前から姿を消してしまう。人々は仙人になったのだと噂するけれども、三人の医者たちは、将軍の身体を診ているので、仙人になったということはあるはずがない、どこかに骨が落ちているだろうと言ったと、こういう話である。

 この話は昭和六年に発表されたが、それまでに賢治は何度かこの話を書き直したり付け加えたりした。発表形も含めて四種類の稿が残っている。発表稿は文庫にも収められているので容易に手に入るが、朗読すると、童話というより響きのよい物語詩だということがわかる。譚詩はあらゆる詩の起源と述べたゲーテの言葉を先に紹介したが、これは賢治の場合にもあてはまるだろう。この作品はまず散文で書かれ(原題「三人兄弟の医者と北守将軍」)、それが韻文に直され、さらに題名も変わり、最終的に大きな物語詩となった。題名が変わるというのは、登場人物の重要さが逆転し、主人公が(三人兄弟の医者から北守将軍に)替わったことを意味する。その過程を跡づけることで、この作品に負わされた意図や主題は何かを考えてみたい。その過程は、賢治作品の成立や展開の事情をも映し出しているのではないか。

 主題は二つある。まず「宮沢賢治とリズム」という主題、これは「言葉の身体」の問題。それから「宮沢賢治と戦争」という主題、これは「言葉の精神」の問題である。この二つが一つになってこの作品は成り立っている。  作品の始めに将軍の「名告り」が詩の形で出てくる(「北守将軍の歌」)。

    北守将軍ソンバーユーは
    いま塞外の砂漠から
    やっとのことで戻ってきた
    勇ましい凱旋だと言いたいが
    実はすっかり参って来たのだ
    とにかくあすこは寒い所さ
      ………………

この歌に作品が物語詩に展開する出発点があると思われる。これは散文初期形の段階では三行ごとに一節とし、間に一行を空ける形だった(発表時に節分けをやめた)。節分けの有無に拘わらず、三行一組は欧詩ではテルツィーネという(ダンテ「神曲」などの)詩形。続いて将軍のあとに続く兵隊たちの歌う軍歌が出てくる。賢治も軍歌を書いている(!)。まず笛や豆太鼓の響きが出てくる。そこには賢治らしい擬音、オノマトぺが使われている。

    タンパララタ、タンパララタ、ペタン、ペタン、ペタン。ピーピーピピーピ、ピーピーピー。

このオノマトぺをどのようなリズムで発音するか? それが物語詩全体のリズムを聞き取る手がかりとなる。「ペタン、ペタン、ペタン」と三回繰り返されるからといって三拍子ではない(そもそも三拍子では行軍できない)。破調なのでかなり難しいが、後に示す賢治の他の作品から考えると、強弱拍が四回反復されると見るべきであろう(欧詩の「詩脚」に相当する、右の傍点は強拍の位置)。「●○/●○/●○/●×」(「四詩脚詩」、×は休符)。これは日本語のリズムとして基本的な韻律をなすとされる(小泉文夫『日本伝統音楽の研究2 リズム』参照)。もともとは 農民の耕作のリズムに由来する左右四歩ずつの二拍子。童謡もまた同じリズムで、童謡を歌うと、日本語の歌の基本が四拍一単位になっていることがよく分かる。童謡はリズムが明快だが、民謡もこれに近づいていく。賢治もこの基本的リズムに敏感で、たくさんのオノマトぺがこの四拍一単位のリズムを形成している。「雪わたり」は「きっくきっくとんとん、きっくきっくとん(+休拍)」。「風の又三郎」は「どっととどどうと、どどうとどどう(休拍)」となる。賢治作品の基本的な響きはこの二拍子の歩行のリズムにある。賢治だけでなく私たちの語感にもそのリズムがあると思う。(註)

 賢治の時代はヨーロッパの音楽(ことに軍楽)を日本語の響き(農耕のリズム)にのせて、日本の近代化(軍国化)を誘導していった時代(鼓笛隊の「ピーピーピ。ピッピッピ×」から「まもるもせめるもくろがねの×」まで)。賢治はそういう時代の響きに対して敏感だった。(日露戦争の激戦地の作品化を構想した)劇草稿「黒溝台」にそれを窺える。

    遙に子らの遊び歌へる声。その声やがて敵陣の軍歌或は俚謡たるを知る(傍点筆者)。

賢治はこのように童謡、俚謡(里歌)と軍歌が同じリズムであることを認識し、作品中に軍歌を置くときにもそれを意識していたと思う。ただ西洋音楽を愛好した賢治の場合、「ピピーピ」「どどうと」と強拍をずらこともあり(シンコペーション)、日本のリズム一辺倒ではなかったことが伺える。

 軍国化という時代の流れと賢治との関係を問う時、「北守将軍」の作品のリズムには考えさせられるものがある。初期形から見ていくと、題名が変わり、発表形に書き換えられた時に軍歌のオノマトぺは消える。その代わり物語の冒頭から、

     むかしラユーといふ首都に、/兄弟三人の医者がゐた。/いちばん上のリンパーは、/普通の人の医者だつた。…
    (区切り線は筆者が便宜的に入れた)。

発表形ではこのように全体が四脚詩形(●○●○●○●○)で統一され、物語詩として全体が一つのリズムを響かせるようになった。発表形は行分け詩ではなくなったが、行分け詩の形であるか否かは本質的な違いではない。

 それはしかし、この作品が行軍の二拍子、日本の軍国化の軍靴の響きで統一されたということだろうか。そのような指摘・批判もある(菅谷規矩雄『詩的リズム』)。 しかし私は後に述べる理由からそれはあたらないと考える。作品中の軍歌について、(賢治は唐詩のイメージを用いたという指摘もあるが)その二拍子にはどこか暗い響きがある。暗さの意味をも含めて最後にふれることにする。

 まずは「北守将軍の歌」に注目する。草稿が形を変えていくなかで、この歌は(将軍の名前、軍勢の数などを除いて)初めからほとんど変わっていない。その意味でも、この歌は作品の中心と言えよう。唯一何度も書き換えられているのは、凱旋の帰還を果たせた理由である。

    それからおれはもう七十だ
    とても帰れまいと思っていたが
    ありがたや敵が残らず脚気で死んだ
    それに脚気の原因が
    あんまりこっちを追いかけて
    砂を走ったためなんだ

敵軍が皆「脚気で」死んでしまったからという箇所、初期稿では「腐って」死んだとあって、途中で具体的な病名をはめ込もうとした異稿が残っている。「赤痢」から「ペスト」そして「中耳炎」と変わる。「ペスト」とは尋常ではない。おまけにその菌は「こちらが大事に持つていつた」とあるのだから。科学技術に造詣の深かった賢治である。ヨーロッパでは毒ガスなどが使われた時代、ましてや医学がテーマの作品。賢治は近代技術と戦争、近代の戦争の持つ可能性をも察していたと思われる。「月夜と電信柱」という作品は、軍隊と(近代技術の粋である)鉄道を結びつけている。近代戦のリズムの昂揚を賢治は身のうちから知っていた。だがその響きを総てそのまま是認したかどうかは別だ。

 賢治は歴史を見ていた。日露戦争で脚気により日本が多数の犠牲を出していたことも知っていたと思う。賢治は戦争の現実をはっきりと見つめ、その上で、そのような近代戦の現実とは違う根拠を、北守将軍の凱旋に与えた。「脚気」に先立って、逃亡の競争で優ったことが、最終的に凱旋の根拠とされた。将軍の歌に続く軍歌の内容から、北守将軍とその軍隊は、敵味方ともに逃走に終始したことが伺える。

    雁が高みを飛ぶときは
    敵が遠くへ逃げるのだ
    追おうと馬にまたがれば
    にわかに雪がどしゃぶりだ。

辺土における苛酷な状況を歌っているのに、この「軍歌」の言葉は、「これには実にまいったよ」とも取れる素朴な感慨を響かせ、自己の運命を距離を置いて受けとめるユーモアをも感じさせる。何より、帰還した将軍が一番誇りとする根拠が、ほとんど兵を失わなかったいうこと。戦勝の栄誉より兵士の命に重きが置かれている。

    殊にも一つほめられていゝことは
    十万人もでかけたものが
    九万人まで戻って来た。

 物語詩の「語り手」は、凱旋して入城する兵の姿を「真っ青に錆びた銅の鉾」と描写する。このように三十年間およそ戦いに使われなかった武器が示唆されているし、「九万の兵といふものはたゞ見たゞけでもぐつたりする」という「語り手」の言葉にも、軍隊や戦争への意気昂揚とは異なった視線を感じることができる。それは賢治の眼差しでもあった。

 「三人兄弟の医者と北守将軍」から最終的に「北守将軍と三人兄弟の医者」と題名が変わった。そこで、医療技術の匠、三人兄弟が将軍の治療を機に名声を得たという初めの結末から、将軍が軍務からも世間からも身を引いて一介の農民として生涯を終えた、という結末に変わった。猛将とは全く正反対に、無駄な戦闘を避けて兵をいたわってきた将軍が、己に栄誉を願わず、末期の姿すら残さない一人の人間として終わっていく。そのように将軍を描くことによって、作品の意図が変わったのである。三人の医者には、仙人として神格化されることを欲しない将軍の意図を代弁する役のみが負わされている。

 こうした点を心にとめつつ、第二の、すなわち戦争の主題、この作品における「言葉の精神」の問題へと移っていこう。「北守将軍」と、なぜ「北」なのかを考えてみたい。

 一九一八年(大正七年)の四月二十六日に賢治は兵役検査を受けた。この頃の父親への書簡から、父親が検査を先延ばしするように勧めたことが窺える。当時は第一次世界大戦のさなか、シベリアでの闘いで戦死する可能性があったからだ。賢治は戦死をも受け入れると述べて宗教的覚悟を語っているが、実際は脆弱な健康状態ゆえに兵役免除となった。それは経済的に父親に頼る生活から離れられぬ負い目の契機となる。その後も「シベリア出兵」は続き、盛岡駅からは工兵第八大隊の兵士らが繰り返し出立していった。賢治はいつもそれを見送っていたわけで、「北」は賢治にとって、生死の問いにかかわる重大な問題だったと言えよう。

 中学卒業の頃から、賢治は法華経に心を捉えられ、父からの自立の意味でもこれを精神的な支えとしてきた。一九二〇年には、保坂という友人に国柱会に入会したと手紙に書いている。会の指導者、田中智学という人の命ならばシベリアへでもどこへでも行くと。ここにも「シベリア」が出てくる。国柱会は、廃仏毀釈で打撃を受けた仏教、なかでも日蓮宗の復興運動で、日蓮宗を天皇制と融合させることを目指し、その際に文芸・演劇などのメディアを布教の手段として重視した。一九二一年に賢治は家出も同様の状態で上野の国柱会本部を訪ね、執事格の高知尾という人物に会っている。そこで文書普及による伝道活動を奨められた。これが賢治が自覚的に童話の執筆を始める契機となった。日本が、天皇中心の国体整備から大陸への侵攻へと転換していく時期に国柱会は大きな役を果たしている(満州国設立に与った石田莞爾は国柱会信徒だった)。賢治は、東京で接した国柱会信徒の姿に自分との距離を覚えたようで、以後積極的に関わらなかったが、はっきりと袂を分かつということもなかったようである。この点は賢治の解釈・評価の分かれ目となっている。

 先に挙げた草稿「黒溝台」には、日露戦争の激戦地で命を落としていく兵士の言葉が記されている。「こんな馬鹿げた戦闘があるか」と。これが、賢治にとって戦争の実感だったと思う。戦いへと鼓舞する言葉を記してはいない。「烏の北斗七星」という作品で、烏の大尉はこう祈る。「あしたの戦でわたくしが勝つことがいゝのか、山烏が勝つのがいゝのかそれはわたくしにはわかりません、[…]わたくしはわたくしにきまつたやうに力いっぱいたゝかいます」。これは、戦争反対を高らかに唱える立場からは、時流に流されていく弱い者のごまかしと責められるかもしれない。愛国心すら引き出されかねない曖昧な言葉だと。結末の「どうか憎むことのできない敵を殺さないでいゝやうに早くこの世界がなりますやうに」という祈りも、畢竟は宗教者の自己欺瞞だと、批判へと構えた眼差しには総てが格好の根拠となる。

 ここで「北守将軍」の「北」という方向が、はっきりと意味を持ってくる。石原莞爾の満州国設立に示されるように、国柱会は日本から大陸へと進出する時期の思想的支柱となるのだが、北守将軍は逃げ回る戦いを経て北から帰ってくる。方向はむしろ国柱会と反対。これはやはり一つの意図を指し示しているのではないか。

 物語詩「北守将軍」に、大陸へと侵攻していく日本の軍靴の音を聞き取ることは間違いだと思う。この作品は、リズムに満ちている。しかしそれは重々しく平坦な(それがときに浮ついて軽々しくなる)行軍の二拍子とはやはり異なる響き。賢治の歩行の二拍子は、弱起の破調を交え、時に四音を越える音数が一詩脚に充填され、暫時の停滞とスピード感を持った趨りとの間で激しく揺らぐ。作品のリズムはその精神をも映し出しているといえよう。戦いを余儀なくされた存在が、手柄を誇らしく掲げるのではなく、むしろ迷い、悩み、怒るひとりの人間が、人間として誠実に、悲喜こもごもの現実と向きあい、生涯を歩もうとする。そういう響きを担っている。

 最終的に作品として纏めるときには整えられるが、初期稿には、そのような自己を偽らぬ誠実を、響きとしてはっきりと聞き取ることができる。先に「北守将軍」の軍歌には暗い響きがあると述べた。それは初期稿で末尾に置かれていた軍歌(発表形では削除された)に最も窺うことができる。

    そらがしろびかり、
    水の中のような、
    おれの服のあや、

    河ははて遠く、
    夕日はまっしろく、
    ゆらぎいま落ちる。

     […]

    雪でまっくらだ、
    旗の画もしぼみ、
    つゞみと風の音。

戦争や殺戮に対する賢治の信仰的な問いは、この軍歌の響きとイメージに語り出されている。これは、(自己が宇宙と呼応し響きあう感応を歌いつつも一方で逆に)内なる暗さと澱みが自然へと流れ出していく『春と修羅』第一巻のイメージにも通底する。自己の内奥の闇を窺わせるこの軍歌の響きは、最終的には削除されたが、これはむしろ口語詩の中に展開されていったのではないか。そのように思われる。

    そらの散乱反射のなかに
    古ぼけて黒くえぐるもの
    ひかりの微塵系列の底に
    きたなくしろく澱むもの      (「岩手山」)。

    四月の気層のひかりの底を、
    唾し、はぎしりゆききする、
    おれはひとりの修羅なのだ    (「春と修羅」)

賢治は自己の暗さ、人間の現実を修羅と名づけた。その暗さこそが人間と世界の根本問題なるがゆえに、地上に争い、戦争がなくなることはない。賢治はそう実感していたと思うし、そういう現実から目を逸らして、ただ平和の歌をうたうことはできないと考えていたとも思う。

    戦いが始まる、こゝから三里の間は生物のかげを失くして進めとの命令が出た。私は剣で沼の中や便所に
    かくれて手を合せる老人や女をズブリズブリとさし殺し高く叫び泣きながらかけ足をする。
                             (「復活の前」)

賢治の若き日の自己像にすでに修羅の意識は深く刻まれている。身近なところでも人と結べない、父親とも和解し得ないという賢治の認識は、嘆きや苦しみの根本となっていた。それは若き日の試行錯誤、花巻の農村での実践を通して彼の実感の内に深く刻まれていったであろう。彼の実存に湛えられたこの澱み、苦しみ、暗さは、時に物語にも語られたが、口語詩のなかでより直截に語られていった。しかしその表現には、時代状況と社会の動向の中で、真実をもって人と出会うことを求めて言葉の響きを整えていった「物語詩」の営みが(時間的と言うより、むしろ、ことの順序として)先立っている。「北守将軍と三人兄弟の医者」から末尾の軍歌を外す、その手続きには、口語詩において内奥の現実と向きあおうとする真摯と、希望を語る方向でメルヘンを生み出そうとする志向とが交錯する、その消息を窺うことができる。

 本稿の冒頭で、尾花仙朔氏の言葉を紹介した。――永らえていたら宮澤賢治も、戦争へ邁進する国家への賛同を表明していただろうと。あるいはそうであったかもしれない。花巻において賢治が敬愛し親しく交わった斎藤宗次郎の『二荊自叙伝』には、天皇に対する賢治の崇敬の態度が記されている。天長節などの祭祀における賢治の衷心からの振る舞いは印象的であった。だが、その後の賢治がどの方向に向かいえたか。すべて仮定の話がそうであるように、確実なことは何も言えないし、言っても甲斐の無いことであろう。

 ここで宮澤賢治の同時代人を一人、並べてみたい。矢内原忠雄である。彼は宮澤賢治より二歳年長で、ほぼ同世代。賢治とは斎藤宗次郎を介して間接的に接している。斎藤は賢治と別れ、上京して師内村鑑三に近く仕えるが、そこで矢内原とも交わった。矢内原は愛媛に生まれ、一高、東京帝大に学び、新渡戸稲造と内村の二人を精神の師と仰いだ。卒業後は別子鉱業所に就職したが、一九二〇年、東京帝大の経済学部に植民政策の講座が立てられると、新渡戸の後任に招かれる。日本の植民地侵出の知的後楯を託された訳だが、着任すると朝鮮、満州、台湾等などを実地調査し、マルクスの経済学説をも援用して、日本植民地の現実と問題を学問的に闡明した。一九三三年、賢治の没する前年から刊行を始めた「通信」によって、また『帝国主義下の台湾』『満州問題』などの著書によって、天皇神格化のもとでの日本の軍国主義と大陸侵出を謂わば内側から批判してゆく。一九三七年、盧溝橋事件を受けて著した「国家の理想」、また講演「神の国」における「日本の理想を生かす為めに一先ず此の国を葬つて下さい」の言のゆえに、帝大教授を辞している。

 矢内原は文人の伝統を継ぎ、詩歌をも著した。若き日の姿は、賢治も忠雄も、信仰心と自然を愛する細やかな詩心を共にしている。賢治との同時代に、たしかに矢内原忠雄のような立場も採り得たのである。しかし、後年の忠雄の活動のためには、実地的に日本を外から見る経験を培うこと、また社会科学の批判的視点の陶冶が不可欠であった。しかしそれは、当時の日本人の多くにとって必ずしも身近に備えられていた途ではなく、その状況は科学技術を学んだ賢治にとっても同じであったろう。それは忠雄一人が呼び出された、運命的に他から隔絶された預言者の召命であったからである。しかし立場を変えてみれは賢治もまた、(短いなりに)彼にのみ備えられた生涯を歩み通したのではないか。北守将軍が三人の兄弟を次々と訪ね、癒やしを得てゆく、その過程がこの作品の本筋。読者はその叙述に溢れる諧謔を享受しつつ、北守将軍の人格から何かを感じ、己を顧みる。戦争を前にした素朴な人間について平易に語る。その意味では、賢治もまた託された詩人の使命を受けとめている。

 コロナ禍、また戦争の惨禍が日々の報道を占めている。こうした問題に対して、すでに様々な言葉が語られているが、そのなかで詩の言葉とは何かをもう一度考えてみる契機として、右の内容を記してきた。賢治の譚詩はまさにこの二つの問題を詩の形で語っている。作品の成就だけではなく、詩が目指すものとは何か。世の大きな動きの中で個人が見透せるもの、果たせるものには限界がある。その中で個々人は、分を尽くし、与えられた言葉を語ることしかできないが、そこにこそその人に与えられた使命と責任があるのではないかと思う。




  註 小泉文夫によると、日本語詩の基本的詩脚は、厳密には、「○○○○/○○○○/○○○○/○○○○」の一六音から成るとされる。古典的な七・五のリズムも、「○○○○/○○○×/○○○○/○×××」と分析される。歌会始におけるような和歌の朗唱からは外れるが、俗謡のリズムである。「ずいずい/ずっころばし/ごまみそ/ずい×××」「ううさぎ/うさぎ×/なにみて/はねる×」(右本文中の日本の軍歌「まもるも/せめるも/くろがね/の×××」の例も参照)。賢治のこの作品も基本的にはこのリズムを取る。「×むかし/ラユーと/いうまち/に×××//さんにん/きょうだいの/いしゃがい/た×××」。この一六音の進行は賢治の他の作品にも当てはまる。ただ、賢治の場合は、右に記したように、弱起の破調を交え、時に四音を越える音数が一詩脚に充填され、暫時の停滞と軽快な疾走との交錯する豊かなリズム感を湛えている。



他の近年の論考

ハーマンに関する論考(1)→●「ヒュメナイオスの秘義」

ハーマンに関する論考(2)→●「ハーマンと内村鑑三」



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