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J・G・ハーマン研究・余滴
「法学新報」第128巻 第7・8号 (2022.2) 掲載


聖書と天然と歴史 ― ハーマンと内村鑑三



 目次: 1. 予型論 ― 信の類比
      2. 進歩史観
      3. 自然神学



1.予型論 ― 信の類比


 内村鑑三は、その著作においてしばしばカントに言及する。カントと同時代、同じケーニヒスベルクの地で、互いに厳しく批判しつつも、ライバルとして評価し合った思想家がいた。その人物、ハーマンJohann Georg Hamann (1730-1788)について、(明治期の思想状況からして)内村が接する機会はなかったと思われる。歴史に対処する仕方を、影響関係の実証的提示とするならば、ハーマンと内村を結びつける根拠はないかもしれない。だが、ハーマンは初期の主著『ソクラテス追憶録』(1759)においてこう述べている、「全ての歴史は、この哲学者[ベーコン]が述べる以上に神話である。それはまた、自然と同様に封印された一冊の書物、覆われた一つの証言、一つの謎であり、この謎は、我々の理性とは別の犢(こうし)で鋤を入れることなくしては、解くことができない」(N2,65/25)。1) この「犢」とは、今日の術語では、歴史への「予型論的typologisch」な接近と呼ぶことができる。時と場所を越えて、人物や出来事が「形・型Typos」として回帰し呼応する。ハーマンはその途をもって彼のソクラテス像を提示した。本稿もそれに倣い、ハーマンと内村鑑三を「予型」とその「対型」の関係において見ていく。2)

 ハーマンはケーニヒスベルクに生をうけ、ほぼその地で活動したが、若くして旅上ロンドンでの困窮のさなか回心を経験し、『聖書考察』(1758)を記した。現実の総てを「神のへりくだりHerunterlassung」と捉える洞察は、生涯の根本思想となった。敬虔主義と啓蒙主義のいずれの自恃にも与せず、皮肉と諧謔にみちた独自な著作活動を展開、その篤い信仰と深い思想のゆえにマタイ福音書2章1節の「東方の三博士(はかせ)」にちなんで「北方の博士(マグス)」と呼ばれた。創造論に立ち「詩は人類の母語」と唱え、感性をも含めた全人性を強調しつつ理性偏重の時代傾向を批判した。その思想はヘルダーやゲーテに影響を与え、「疾風怒濤」やロマン主義の文学を導いた。また、人間の実存性の強調はキルケゴールに深い影響を与えた。「言葉は理性の子宮」という世界の言語性・身体性への洞察は、カントへの批判の核心をなすが,ベンヤミンをはじめ現代思想を先取りする。ゲーテは彼に「時代の最も鋭敏な知性」を見出し、ヘーゲルもその著作を「文体そのもの」と激賛した。ハーマン自身の志向は、ベルリン啓蒙主義の「光の志向」との対決にあった。彼は、時代の理性信奉の表面的な明るさの追求が、むしろ知者も民衆も等しく服従させ、その魂の腐敗を醸成する闇の支配を覆い隠すことを指摘する。そのような「啓蒙の啓蒙」の姿勢は、「啓蒙の弁証法」を18八世紀において先取りする。生涯税関官吏など市井人の立場で雑誌編集などに携わった。

 さて、ハーマンはその最晩年に病をおして大旅行をおこなった。西の果て、ミュンスターにアマーリエ・フォン・ガリツィン公爵夫人を訪れるために。シュペーナーを祖とする敬虔主義は、時代の潮流として広くカトリックにも及び、ミュンスターにも敬虔派の交わりが形成されていた。公爵夫人はその中心人物の一人。浮ついた社交とお定まりの結婚には満たされず、自己の教養と二人の子どもの教育のために若くしてこの地に引きこもった。独自の教育観を実践して、子どもと一緒に屋敷の近くの川で水泳までしたとか。これは、18世紀の女性としてはスキャンダル。そんな逸話も残る一方で、ゲーテに文通を申し込まれるほど、知性を備えた女性の魅力にも溢れていた。なによりも自己に忠実で、どこまでも真実を求めた。ハーマンを知ると、その著作を探し求めるほど関心を寄せた。ハーマンの訪問は、その願いに応えたもの。その人格と厳しさを備えた彼の言葉は、彼女に深い印象を与えた。心の父と慕うまでに。滞在の後、郷里へ帰還せんとしたが、病はそれを許さなかった。カトリックの町に、プロテスタントの墓はなく、アマーリエは即座に決し、自らの庭の一隅に彼を葬った。それは、ウエストファーリア条約(1648)からほぼ1世紀半ののち。この町に相応しいエキュメニカルな出来事であった。

 その心に刻まれたハーマンの言葉を、彼女は後に伝えている。学問や教養を追求する際の真摯を彼女は信仰にも当てはめた。だが、ハーマンは指摘する。「あなたの撒いた種に耳を澄まし、その成長を見ようと、あなたが持ち込む総ての配慮」、それはむしろ「隠された不信仰、隠された享受願望」に他ならない、と。「種が芽を出すかどうかと、立ち止まったまま耳を澄ましたり目をこらすことはせずに、撒いたらそこを去って、成長と繁茂は神の手にお委ねなさるように」。3) これは内村鑑三がアマーストで、信仰の師シーリーから聞いた言葉と響き合う。「内村、君は君の衷をのみ見るから可ない。君は君の外を見なければいけない。何故己に省みることを止めて十字架の上に君の罪を贖ひ給ひしイエスを仰ぎ瞻(み)ないのか。君の為す所は、小児が植木を鉢に植えて其成長を確定(たしか)めんと欲して毎日其根を抜いて見ると同然である。何故に之を神と日光とに委ね奉り、安心して君の成長を待たぬのか」(29:343)。4)

 信仰とは、神の業に信頼して仰ぎ見ること。時と所の隔たりを超え、福音と信仰の核心において二つの出会いの出来事は重なり合う。その符合について、アマーリエの生誕から250年目、筆者はミュンスターで講演をした。その年はウエストファーリア条約締結350周年の記念にも重なった(1998)。これを契機に、ハーマンと内村鑑三との呼応をさらに意識する。――内村の強調する「実験」とハーマンの「実感Empfindung」との類比。それぞれの時代・社会への批判的対峙。詩の重視と詩人・預言者への積極的評価。さらに、自然(天然)や歴史の持つ両義性を見すえつつ、究極の解決を終末論的希望に託すこと、等々。本稿では、内村が「聖書之研究」の「所感」に「信仰の鼎足」と題して述べた主題に集中する。――「我は聖書と天然と歴史とを究めんかな。而かして是等三者の上に我が信仰の基礎を定めんかな。神の奥義と天然の真実と人類の実験[…]。科学を以て聖書の上に蒐まる迷信を排し、聖書を以て科学の僭越を矯め、歴史の供する常識を以て二者の平衡を保つ。三者は智識の三位なり、其一を欠いて我等の智識は円満ならず、我等の信仰は健全ならず」(11;201)。これを先取りするようにハーマンもまた述べている。――「神は、自然と御言葉において、自らを人間に啓示された。[…]この二つの啓示は互いに説明し合い、支え合っている[…]。自然誌Naturkundeと歴史とはその上に真の宗教の基づくところの二区分である」(N1,9)。自然(天然)と歴史を両者はどう捉えたか。


2.進歩史観


2.1.『地理学考』

 歴史においては、一人の人物の思想や事績が簡潔に一語で記憶されることがしばしばある。内村鑑三における「不敬事件」はその典型である。アメリカから帰国した内村は、新潟北越学館での短い教育経験を経て、1890年、一高に嘱託教諭として赴任した。折しもその年の暮れ、一高に宸署の教育勅語が授与され、年明けにその奉読式が催された。内村は躊躇しつつも出席したが、勅語の前で最敬礼という式次第に宗教的礼拝に通じるものを感じ、僅かに頭を下げるだけであった。この不十分な敬礼が、国粋主義的な教員生徒の目にとまり、社会的事件にまで発展する。内村は、直後に病を得て床に伏したが、知らぬ間に依願免職が取られ、また看病疲れで妻加寿子を亡くす。仕事と家庭を一度に失い、大阪、熊本へと転々とし国中に安住の地を見いだせぬ境遇を味わう。これは、天皇制擬似宗教国家へと基礎を固めてゆく日本がキリスト教と衝突した記念碑的事件となった。

 この時期の内村の著述や活動を時事に併せて辿ると以下のようになる。――米国より帰国(1888.5)、大日本帝国憲法発布(1889.2.11)、教育勅語渙発(1890.10.30)、教育勅語への不敬事件(1891.1.9)、井上次治郎「宗教と教育の衝突」(1892「教育時論」)、"Japan's Future as Concived by a Japanese" [= Japan: It's Mission](1892.2.5, The Japan Daily Male)、[同訳文]「日本国の天職」(1892.4.15「六合雑誌」136)、『基督信徒の慰』(1893.2.25)、「文学博士井上哲次郎君に呈する公開状」(1893.3「教育時論」285)、『地理学考』(1894.5.10)、「後世への最大遺物」(箱根キリスト教徒第6回夏期学校講話1894.7.16-17)、「世界歴史に徴して日支の関係を論ず」(1894.7.27「国民新聞」)、日清戦争開戦(1894.8.1)、"Justification for the Korean War" (1894.8.11, The Japan Weekly Male,)、[同訳文]「日清戦争の義」(1894.9.3「国民之友」234)、「日清戦争の目的如何」(1894.10.3「国民之友」237)、『Japan and the Japanese日本と日本人』(民友社刊1894.11.24)、終戦(1895.4)。

 不敬事件は、日清戦争の勃発を間近に控えた時期に重なる。その痛手の癒えぬ内に内村は「日本国の天職」を執筆。その内容は、ほぼそのまま『地理学考』に再録される。時を措かずして内村は「日清戦争の義」をも著したが、『地理学考』の執筆時、すでに迫る戦争を意識していたことは否めない。さらに『Japan and the Japanese』の一章は、征韓論を唱えた「西郷隆盛」にあてられる。徳富蘇峰の雑誌「国民之友」に寄稿し、その民友社から『Japan and the Japanese』を刊行している点など、『大日本膨張論』(1894.12)を著した蘇峰との近さも指摘しうるであろう。内村は、明治期の日本人として、その愛国心を共にしている。だからといって、蘇峰の「日本膨張論」を内村鑑三にも帰すのは早計である。

 内村の「日本国の天職」には、上述のように現実の愛国とは齟齬をきたす事件が先立っている。不敬事件から、東大教授井上哲次郎による「教育と宗教の衝突」論争の全国的展開の中で、内村は国中に「枕する所もない」境遇に置かれた。『基督信徒の慰』に収められた一章「国人に捨てられし時」には、その時の切実な経験が語られている。それまでの内村は、帰国時に志した日本社会へのキリスト教導入が即、国を愛する途と言い得たであろう。しかし、この事件後は、愛国の意義を語り得るためにまず、あるべき国の姿を予めキリスト教の精神に立って見直す反省を要した。日本国もまた、人類史において様々な国に託されてきた義の発揚と進展に貢献するものでなくてはならない。「日清戦争の義」の論述自体は、歴史に繰り返されてきた戦争正当化の論調と重なる点を無視し得ないとしても、戦争を遂行する一国家の義が即自的に肯定されてはいない。

 すでに「日本国の天職」で、「各国民にも是に特別なる天職あって全地球の進歩を補翼すべきものなりと考ふるなり。余輩一国民の歴史を研究するに当つて若し之を世界歴史に於ける関係より考究するにあらざれば其区域実に狭隘なるものと謂はざるを得ず」と述べられる(1,286)。日本国の天職とは、畢竟、世界のために何が出来るかに懸かっている、と内村は言うのである。『地理学考』は、「日本国の天職」を、他ならぬ「人間終極の目的」にむけて基礎づけるための航海図を、世界地理の広さに展開して提示するものであった。この時期、内村は個々人の天職についても「後世への最大遺物」と題して語り、誰でもが遺しうる最大の遺産として「勇ましき高尚なる生涯」(4;280)を示唆した。この世が失望の世界ではなく、神が支配する希望の世界であること、ゆえに少数の正義の方に立って、多数の不義と戦う意地を説く内村の言に偽りはない。惜しむべきは、そのような気概を自国の天職と結んだ時、内村は、(時代的制約があるとはいえ)自国の現実や民の動機を買いかぶりすぎたし、また戦争のもたらす悲惨について楽観的でありすぎた。戦争の経過と共に、内村は自らの不明を思い知る。判断を誤ったことを直截に認めている。戦争が、勝者をも道徳的退廃に追い込むことを具に見聞し、先に唱えた自論を慚愧の念をもって撤回し、民の最も弱い者の痛みを憂う。戦争で夫を亡くした妻の悲歎を主題とする詩「寡婦の除夜」(1896.12.25「福音新報」78)は、内村の転機を記す。「寡婦の除夜」は著書『小憤慨録 下』(1898.11)に再録、刊行されたが、戦争批判の詩として、日露戦争(1904-05)時の与謝野晶子の詩「君死にたまふことなかれ」(1905)に先立っている。

 この頃の内村の時評は、国家形成の根幹を見つめている。「寡婦の除夜」と同年刊行の『時勢の観察』(1896.8)に言う。日本人は理想を語っても行わない、それは公徳と私徳を使い分ける実益主義だと。翌年、『萬朝報』掲載の「胆汁数滴」(1897.4)では、維新政府の虚偽利欲を糾弾するが、またより大なる問題として、利欲追求の理論的基礎を据えた人物として福沢諭吉にも批判の目を向ける。「利欲を学理的に伝播せし者は福沢翁なり」(4,134)と。――殖産興業と和魂洋才、すなわち兵の後について行く財閥の欲得追求を虚偽として批判、さらに、その後ろ楯としての思想、すなわち実学と称して経済合理性のみを追求し、魂の問題は伝統的心性にて足れりとする独善を問題在りとする。内村は、これを建国の精神として民を導くことは国の道を誤るとした。

 同じく1897年、内村は『地人論』(『地理学考』訂正再版1897.2)に「第二版に附する自序」を添えた。「日清戦争以後の日本人は、余が本書に於て論究せしが如き大天職を充たすの民にあらざるを証するが如し。然れども余は天の指命を信ずる篤し。猶ほ暫く余の考察を存して、事実の成行を待んと欲す」(2;480)。内村が何を撤回し、何を撤回しなかったかが、明らかに語られている。以降、内村は,財閥中心の経済発展のなかで弱者が虐げられていく日本社会の進展を糾弾しつつ(足尾銅山鉱毒被害視察1901.4)、国民の道徳的現実にではなく、日本国になお使命を託す神にのみ専ら根拠をおいて希望の論を展開していく(「失望と希望」1903.2「聖書之研究」33))。内村の「二つのJ」すなわちJesusとJapanが語られるのはそのような文脈においてである。「私共の信仰は国のためでありまして、私共の愛国心はキリストのためであります」(11;49)。この後、内村はさらに、日露の戦争を控えて非戦論を展開する(「余が非戦論者となりし由来」1904.9)。現実の戦争への態度ははっきりと転換される。その一方で、国家の興亡の根拠を見定めた内村の歴史観は変化はしていない。そのような意味で『地理学考』は、この時期以降も内村の思想全般を象っていき、世界史における国々の興亡を扱った「興国史談」へと繋がっていく。そこにはどのような背景があるのだろうか。

 予め本章の着眼点を提示する。――『地理学考』における内村鑑三の叙述は、ヨハン・ゴットフリート・ヘルダーの人類発展史観を思わせる。内村とヘルダーがともにするもの、それは、自然・宇宙の歴史的生成のもとに人間と文化を位置づけるという思考の構図である。また、宇宙万有をも含む世界観・自然観のもとで人間存在の意義と役割を考え、時代の自然思想に積極的に関わる姿勢も響き合う。『地理学考』において、ヘルダーとの近接はなによりも挙げられた「参考書目」において明らかである。

 日本に科学思想としての進化論が紹介されたのは、モースの『動物進化論』(1883)の刊行を嚆矢とする。加藤弘之『強者の権利の競争』(1893)など、ほとんど抵抗もなく進化論は日本に受け入れられていく。内村の場合はさらに早く、すでに札幌農学校時代から進化論に触れている。内村の読書経験には、すでに札幌時代からダーウィン『ヴィーグル号航海記』(1839)、また『種の起源』(1859)が含まれている。

 『地理学考』においては、ダーウィン『種の起源』の通俗化によって宗教の被った打撃は顧みられず、前著『ヴィーグル号航海記』の世界像が積極的に評価されている。この方向付けにおいて、内村はヘルダーに連なっていくといえよう。そこに直接の関係を跡づけることはできないが、間にアレクサンダー・フォン・フンボルトが入ることによって、ヘルダーから内村への系譜を辿ることが可能となる。フンボルトの主著『新大陸の赤道地方旅行記』全30巻(1799-1834)のうち、フンボルト自身によるドイツ語版は『植物地理学考』Ideen zu einer Geographie der Pflanzen (1807)という表題が付されており、『自然の風景像』(1808)の相貌論的地理学の標榜は、ヘルダーの観相学Physiognomieへの関心と二重映しに重なる。内村の『地理学考』もまた相貌論的地理学と呼びうるもので、「参考書目」にはフンボルトの弟子リッターCarl Ritterの名前が挙げられている(2;354)。リッターは地理学研究の本質を以下のように述べる。「刻みこまれ形づくられながら自然の形象として存在している歴史の姿を通じて大地の意味を見いだすこと。歴史の告知するヒエログリフに包まれた生きものとしての大地を眺めること。」5) このようなリッターの相貌学はまさしくヘルダーの思想の系譜に位置を占めるものと言えよう。内村は、既に「日本国の天職」において、リッターの言葉を紹介していた(1;287)。 内村自身は、リッターの弟子のスイス人でアメリカに移住したカール・ギヨーの著書『地と人Earth and Man』の読書経験から最も影響を受けており、第二版『地人論』の表題を彼に負っている(「第二版に附する自序」)。「普魯士(プロシア)国に於ては夙(はや)くより重きを地理学訓練に置き、リツテルRitterペシヱルPeschel、氏らの誘導の下に今は世界に比類なき地理教科書を持つに至り、」「瑞西(スイス)の帰化人にして米国プリンストン大学の地理学教授たりし故アルノルド、ギヨー氏は有名なるカール、リツテルの崇拝家にして、彼が米国人の無頓着なるに関せず、三十年間孜々として地理教育新組織を伝布せしより」(2;366)云々。大陸の思想が大西洋を越え、アマーストにおいて内村に受け継がれたそのような経路を辿ることができる。

 『地理学考』の言葉が内容の上でヘルダーの思想に一番近づくのは、地理学研究の目的が世界観念の育成に役立つと述べる部分であろう。「地理学に依て吾人は健全なる世界観念を涵養すべきなり、国家のみが一個独立人たる社界にあらず、地球其物が〈一個有機的独立人〉なり、地方が一国の一部分に過ぎざるが如く一国も地球てふ一〈独立人〉の一部分たるに過ぎず」、「我等は日本人たるのみならず、亦世界人(Weltmann)たるべきなり」、「眼を自国の外に注がざるものにして能く宇宙を包括する観念の起るべき理あらんや」(2;363)。宇宙が有機体であるという思想についてそれ以上の追求はないが、Weltmannの語は、フンボルトの「世界の市民」(2;365)に依るものである。内村はさらに「世界観念養成の実利」として「謙遜」「寛裕」「博愛」「自重」を挙げ、「真正の愛国心とは宇宙の為めに国を愛するを言ふなり。而して如斯愛国心のみが最も国を利するの愛国心なり」(2;365)と続ける。個別が普遍と深く結んだ所ではじめて成り立つのが、他ならぬ愛国心の真正さであるという。

 『地理学考』はさらに、「地理学と歴史」の関係について述べていく。「地理学と歴史とは舞台と劇曲との関係なり、地は人類てふ役者が歴史てふ劇曲を演ずる舞台なり」(2,366)。人間に自由な意志の働きを認めた上でなお、地理学上の位置や地形が人の行為に感化力を及ぼし、歴史に重要な役割を果たすとされる。「一国の歴史は其地と其人との相互動作(Interaction)の結果なり」(2;367)。そのうえで、歴史に感化力を及ぼす地形の典型として、山国、平原国、海国の三つを挙げ、それぞれ「思想の起こるところ」、「思想の実行されるところ」「人類観念起こるところ」とする。地勢は文明進展の方向性を決定づける。「歴史は山に始まり、平原を通過して海に終る。」(2;385) そのような方向付けの背後に、内村は造物主の備えた経綸を見ている。続く「地理学と摂理」において、地球は「適宜なる奨励と適宜なる障害」(2;389)を教育的に備えるとされ、小児・青年・壮年・老年という個人の発達段階に準える形で、人類の体・智・霊の均斉的発達を語る。内村とヘルダーとの間には、造物主の摂理経綸の側に立つか、汎神論的な有機体の展開に立つかの相違があるにしても、両者はこうした発展進歩の思想をともにしている。

 内村の発展進歩の思想は、1897年から「東京独立雑誌」に連載された「興国史談」においても展開される。内村は「文明の創作者」「文明の錬磨修飾者」「文明の保護者・救援者」(7;268)の継起的発達について語った後、古代オリエントから世界史における個々の文明を興国と亡国の観点から描き出す。これは、ヘルダーの主著『人類史の哲学のための理(イデ)念(ーン)』に相当する著述と呼べるであろう。「歴史は人類進歩の記録である、或は人類の発育学である、[…]人類も彼の占領する地球并に彼を繞(じよ)囲(うい)する天然物と同じ様に進化的のものである、彼の終る処は滅亡に非ずして完全なる発育である、[…]若し一国が亡びんとする時には必ず他に興らんとしつゝある国があるのである」(7;266)。「斯の如く国に興亡盛衰がある、[…]是は人類全躰の興亡盛衰ではない。世に亡びざるものは真理のみである、故に興と云ひ亡と云ふは真理に与すると之を棄つるとの二者孰(いず)れか其一に由るのである」(7;267)。自然科学への関心を抱き続けた内村は、人類史における興亡を跡づける際にも、被造世界と生物進化論の関係を意識していたし、これに関連する社会進化説にも関心を払っていた。『地理学考』の「参考書目」には、「ヘーゲル氏、歴史哲学」が挙げられており、歴史における発展進歩を積極的に認めるという点で、この「興国史談」は、啓蒙主義からヘルダーを経てイデアリスムスに至る歴史観の展開と通底している。そのような進歩の肯定は、市民社会への貢献度の増大において宗教を意義づける19世紀の自由主義キリスト教においても、広く担われている立場であった。6)

 このような内村の歴史観が覆るのは、後日、第一次世界大戦が始まり、アメリカの参戦によりキリスト教国が総て戦争に加担する事態が生じた時である。内村の対応(再臨運動1918/19)は、後で扱うが、進歩史観とハーマンの関わりについて、予め述べておく。


2. 2.「啓蒙の啓蒙」

 ヘルダーは青年時代、二人の先達、カントとハーマンから影響を受けた。とりわけ師ハーマンには個人的に薫陶を受け、文筆家としての出発に際して多くの示唆を得た。真理の歴史性についての彼の思想もハーマンに多くを負っているが、その展開においては、むしろカントに近い方向を採った。18世紀啓蒙思想は、人類歴史の歩みを総じて楽観的に捉えている。「世界公民的見地における一般史の構想(イデー)」(1784.11)、「人類史の憶測的起源」(1786)「万物の終わり」(1794)などのカントの歴史哲学は、理性の進歩にどこまでも信頼を置いている。レッシングの『人類の教育』(1780)もまた、徳性への向上として人類史の展望を描いた。彼等に伍してヘルダーの『人類史の哲学のための理念(イデーン)』(1784/91)も、地理や気候と結んだ有機的な生の進展として、人類の歴史を、目標とする「人間性(フマニテート)」に至り着く歩みとして叙述する(その結論部は『人間性促進への書簡』1793/97)。 

 これらに比べると、ハーマンの歴史観は冷静な現実認識に基づいている。彼は、カントの『純粋理性批判』をゲラ刷りの段階で読み、経験から歴史や言葉を捨象して、理性を純化しようとするカントの志向は、自己充足的な沈黙に陥ると指摘した(「理性の純粋主義のメタ批判」1784)。カント自身は『実践理性批判』への途上で、自らの歴史哲学を「ベルリン月刊」で公にしたが、「啓蒙とは何か」(1784.12)もまた同時期に寄稿している。すでに「一般史の構想(イデー)」において彼は、人間がその自然の素質を展開して、全人類の完全な公民的結合を成し遂げるとの展望を描き、哲学も「千年王国説」を持ちうると述べた。「啓蒙とは何か」では、その展望のもとに、彼の時代認識と提言が述べられる。ハーマンはこれに対する厳しい批評をカントの弟子クラウス宛に書き送っている。

 カントは啓蒙を、人間が他人の後見を必要とする未成年状態から成人へと抜け出ていくことと定義した。そして、自然により悟性を備えられながらなお未成年状態に留まることを、決意と勇気の欠如として、その人のせい(Schuld責任・罪を含意)だと述べる。さらにカントはここで「性差」を持ち込み、大多数の人間、ことに全女性を臆病と怠惰のゆえに咎Schuldありとする。ハーマンはこれを見逃さない。

 この論考でカントは、フリードリヒ2世治下の「上からの啓蒙」を殊にその宗教政策のゆえに評価した。現在の時は(「啓蒙化」されたとは言えないが)「啓蒙の時代」だと。その際に彼は「公的自由」と「私的自由」の区別を提起。前者は、人が知識人の世界市民的視点から発言する自由。後者は、国家・教会の官吏の立場で語る自由。公的自由の容認ゆえにカントはフリードリヒを啓蒙の後見人と称え、一方で私的自由の制限はやむを得ぬとした。だがハーマンはむしろ、専制君主の強権と収奪のもとで自由とはほど遠い民衆への共感を語る。その人々にとって、自由の公私を区別することに意味があるかと。「理性と自由の公的使用とは食後(デザート)に他ならない。私的使用こそ〈日毎のパン〉なのに、我々は食後(デザート)さえあればこれを欠いてもかまわぬと言われる」。カントはフリードリヒの差し出す公的自由という甘味に酔って、いつのまにか専制搾取の後ろ盾を演じてはいないか。民衆の臆病を責める(責任ありとする=断罪する)のは、強権支配の装置として自らが後見人の優位に浴するからではないか。ハーマンはそのような後見人の自恃こそが実は啓蒙を要すると言う。カントの言う「〈自らの責任(罪)である未成熟〉とは、彼が総ての女達に示す歪んだ口元[侮辱]のことだ。私の三人の娘はそれを放ってはおくまい」(ZH5,292 /229)。

 時と処を隔てて現在の日本から見ると、カントの公的自由は「思想良心の自由」を示唆している。一方でハーマンはそのように啓蒙を唱える者自体が実は問題を抱えると指摘し、彼らが顧みない「身体」や「性」の問題に注目する。二人の立論は相互補完的といえよう。啓蒙理性が軽視する社会の「身体」として、ハーマンは「女性」や「子供」に注目し連帯した。「後見人頭(がしら)[フリードリヒ]の手飼いの者とはならず ― 未成熟の無辜なる人々と関わるように」と。ハーマンは、理性の進展に恃む啓蒙主義の将来像、その明るい自由観に信頼をおかない。時代の現実はむしろ「夜」であるとし、フリードリヒ没後の反動を予測する。そこでなお闇に屈せぬ自由の姿として、身近な弱者に対する配慮を示唆する。それは、ルターの『キリスト者の自由』に立ち返り、その自由像を受け継ぐ。――戦勝に酔う時代に「寡婦の除夜」を記した内村鑑三においても、等しい精神の型を指摘することができる。

 ハーマンにとっては、啓蒙専制君主フリードリヒ2世こそが、批判すべき真の相手であり、そのフランス贔屓の啓蒙政策を、王の偏愛したフランス語で揶揄することも試みた(「プロイセンのソロモンへ」1773)。この小著はどの出版者も刊行を憚って日の目はみなかったが。――明治政府は、プロイセンの憲政と「上からの啓蒙」を国家形成の模範としたが、内村は生涯、藩閥政府の虚偽利益を痛烈に批判した。その際に上述のように、魂とその真の自由の問題を措いたまま利益追求の学問的後ろ楯をなすとして、福沢諭吉の後見的立場をも批判している。これは、ハーマンがカントに対して唱えた異議と重なってくる。「上からの啓蒙」に対して、「啓蒙の啓蒙」をもって対峙する、同じ構図、思想の型の類比を1世紀を隔てたプロイセンと日本に見出せる。

 18世紀後半、進歩史観的な歴史記述の草創期にハーマンはその人間理性に対する楽観的展望を批判した。進歩史観の行き渡る19世紀を経て、戦争の20世紀の嚆矢にあたり、内村鑑三は、自らの進歩史観の挫折を通して、その批判へと転じてゆく。そこで獲得された新たな歴史展望において、内村はハーマンと等しい自然理解に立ち戻ってゆく。


3. 自然神学


3.1.「自然の書」

 札幌農学校卒業後、内村は札幌県の官吏として用務のため上京、その折に第3回全国基督信徒大親睦会にて「空ノ鳥ト野ノ百合花」と題して演説した(1883.5.9)。冒頭、内村は「造化の巧妙」を究める二つの途として、二王子の譬えを提示する(1;395)。――長じて後ともに美麗な宮殿に入り、兄はそれを父王が恩愛により建造して彼らに遺贈したと知り、感謝を抱いてその巧造を研究し、弟はその知らせを無用として受けぬまま穿鑿してその構造を探ると。これを造化自然を学ぶ二種の学者の譬えとし、(力量や結果に差はなくとも)事物の関係や効用を専ら追求する無神論的研究に対し、造物主の知恵と恩愛を想う立場の歓喜を特筆する。ニュートンやダーウィンをも後者に等しい立場として援用し、多様な動植物を擁する日本のキリスト信徒が自然研究において神を知る幸いを訴える。

 演説の末尾近く内村は、「神の永能と其神性とは造られたる物により創世以来さとり得て明かに見べし」と、ロマ書1章20節のパウロの言葉を引く。これは、「自然神学theologia naturalis」、あるいは「自然学神学Physikotheologie」と称される思想である。「自然神学」は旧約聖書にも遡る。一方「自然学神学」は、17世紀英国経験主義の自然哲学において生じ、18世紀前半に各地で盛んに論議された術語である。ドイツにはハンブルクの学者ファブリツィウスJohann Albert FabriciusによるダーハムWilliam Derhamの翻訳を通して伝えられた。ケーニヒスベルクでは、ハーマンとカントの共通の師クヌッツェンMartin Knutzenもその立場を採った。7) 自然科学の発達は元来、摂理の教理から自然を見るという神学由来の動機に発したが、その進展は神学からの自然科学の解放を導いた。これに対抗する弁証として「自然学神学」は生まれた。当時の自然学者は、神を自然法則の創造者とし、創世にのみ神の介入を認め、完全なコスモスの成立後には恣意的な介入は無用とした。一方で神学者は、創造後の自然になお神の同伴と保持を認めようとする。この両方の傾向を自然学神学に認めることができる。両者ともに「自然の書」に大いなる職人・芸術家としての神を認めつつ、一方は(ニュートンのように)自然法則の数学的・理論的完全性を、他方は自然の美の審美的完全性と有用性を強調する。両者ともに、自然固有の法則性を認める点では共通である。今日とは違って、当時はむしろ後者が主流であった。8)

 「取るに足らぬ草が神を証明するものであるならば、どうして人間の取るに足らぬ行為の意義がそれに劣ることがあろうか。聖書は、きわめて惨めな民を、またそのきわめて卑小で、罪深い振る舞いを選んで、これを神の全智全能に纏わせ、そのような謙卑(へりくだり)の形において自らを啓示した。それゆえ自然と歴史とは、神の言[聖書]を説き明かす二つの大きな註釈であり、反対に、神の言は我々にとって、この両者を認識するための唯一の鍵なのである。自然宗教と啓示宗教の違いとは何か。そこには、絵画について、また絵に示された物語について何の理解もなく画面を見つめる人の眼と、画家の眼との違いが、また生まれながらの耳と音楽家の耳の違いがある」(N1,503)。

 ハーマンの所謂回心の出来事の最中に記された文書の中に上の記述がある。その表現は、本稿第1章に示した内村の所感「信仰の鼎足」と通い合う。また、被造物(草)が神を示すという自然神学の思想も示唆されている。さらに、自然宗教と啓示宗教の違いに関して、生まれながらの(自然の)眼や耳と、画家や音楽家の眼や耳との対比は、内村鑑三が「空ノ鳥ト野ノ百合花」で挙げた、兄弟王子の対比とも響き合う。

 自然学者と神学者の間での「自然学神学」の違いについて先に述べた。前者の数学的理論は民衆からは疎遠な学問書で著された。後者の審美的解釈は説教を介し広まり、哲学的にも流行した。クヌッツェンに伝わった自然学神学も審美的要素が強く、神学諸分野の中では「創造論」に偏向していた。ファブリツィウスの友人であった詩人ブロッケスは、草などの事物を介して専ら創造神の「崇高性」を讃えたが、キリストにおける「救済論」は抜け落ちていた。「贖罪」を無視した楽観的世界観は詩集名『神の内なる地上の愉楽』にも示されている。クヌッツェンのもとで、ハーマンは審美的な自然学神学を一度は共にしたが、上の引用では、その思想との訣別が表現されている。ハーマンの回心は、自己の滅びと向き合う中で神の謙卑(へりくだり)に出合う出来事として生起した。その出来事を受けて、彼はキリストにおける神の謙卑(受肉と十字架)を三位一体的な出来事として、創造や聖書記述にも認める。自然や歴史の出来事の中に崇高な神のみを見る「栄光の神学」は否定され、自然と歴史はむしろ「十字架」の刻印を担うものとされる。自然神学と啓示神学の違いを知る眼と耳に、自然は異なる相貌をもって現れるとは、その謂である。――内村鑑三の示す二王子の譬えには、まだキリスト論は反映されず、その限り、17・18世紀の自然学神学を踏襲した叙述といえよう。

 ケーニヒスベルクに帰還の後、著作活動を開始したハーマンはその主著『美学の堅果(くるみ)(提要)』(1762)の劈頭、次のように記した。「詩は人類の母語である。[…] 形象にこそ人間の認識と至福のすべての宝は存する。[…]自然の原初の出現とその最初の享受とは、〈光あれ〉の言葉において一つに結ぶ。これにより事物の現存の実感が始まる。/神の形象(かたち)に彼は人を造った」(N2,197/116)。「創造主に対する人間のこの類比(アナロギー)は、全ての被造物にその内実と刻印を授け与えるものである。全自然界における至誠と信頼は、この一事にかかっている。この理想、すなわち見えざる神の似姿が我らの心性の内に生き生きと脈づくほどに、我らには、神の慈しみを被造物の内に見、味わい、しかと眺め、手をもて触れることがいっそう可能となる。人間の内に記されている自然のいかなる印象も、〈主は誰であり給うか〉という根本真理を想起させるのみならず、この真理を保証するものである」(N2,207/143)。

 ここでは単に自然の認識が説かれているのではない。むしろ、自然との交渉を喜びと述べ、そこに創造の目的が示唆されている。創造とは(へりくだった神の)「祝福」なのである。「それははなはだ良かった」(創世記1の31)。人間は神が祝福を告げた被造物の直中に、自らもまた嘉せられた存在として立つ。そもそも「光あれ」という最初の言葉自体、世界が闇と混沌の支配する無秩序の中に喪われてしまってはいないことを示している。自然は神の「ことば」であり、人間への「神のへりくだり」を映し出す詩的な原言語として特徴づけられる。自然の事物、その言葉ならぬあり方もまた「ことば」であると。

 世界の言語性、それは創造の起源に由来する。原初の著者、神によって被造物の内に刻み込まれた「ことば」。しかし、これを顧みない人間の振るまい、とりわけ近代世界における専ら知的な取り扱いによって、自然の「ことば」は損なわれ、辛うじて「呻き」を発するのみと成っている。「責が(我々の内ないし外の)いずれに存するにせよ、自然の内には乱れに乱れた(トゥルバート)詩句、また〈切リ刻マレタ詩人ノ肢体〉の他、何ものも我々の用のために残されていない。それらを拾い集めるのは学者に、それらを解釈するのは哲学者に、それらを模倣するのは ― あるいはより大胆に語って ― ― それらを組み上げるのは詩人に、各々委ねられた職分である」(N2,198/119)。ホラティウスの詩を引きつつ、ハーマンは近代の自然世界を「切り刻まれたオルペウスの体躯」に準える。近代の自然科学のもとで、人の内外の自然がその知識に隷属するに至る。(一方で、時代の芸術論は「自然の模倣」を説き、自然を栄化・偶像化して崇めるが)自然の語り出す「意味」や「目的」は顧みられない。この現実認識のもと、ハーマンは喪われた原初のポイエーシス(創造=詩)を指し示し、神に対する人の最初の応答を回復することが、(期待される)詩人の使命と説く。自身の著作においては(同時代の進歩思想や、自然学神学の「崇高性」志向に比して異例なまでに)「終末」待望の形象が重ねられてゆく。「君たちがかの光り、創造の初子を窒息させるやいなや、美しい世界の色彩はことごとく色褪せる。[…]いずれの被造物も代わる代わる君たちの犠牲となり、また偶像となる。― おのが願いによらず ― されど望みは残され ― [虚無(むなしき)に]服させられて、被造物は服従のもと、あるいは自らの虚栄[の姿]ゆえに呻く。被造物は最善を尽くして君たちの横暴を逃れんとし、また、かつて神が人のもとへ獣たちを連れ来たりて、人がいかに名指すかを見給わんとした際に、獣らがアダムを敬ったあの自由に憧れて、これを熱烈にかき抱かんとする」(N2,206/142)。自然の万物は、呻きつつ「著者なる神」が「世の終わりの盗人」において到来するのを待ち望む。ロマ書8章22節の「被造物の呻き」を引いて、ハーマンは内村鑑三の「呻く宇宙」を型において先取りする。


3.2「呻く宇宙」

 ハーマンの言語観と詩人観はパウロの終末論を踏まえたもので、内村鑑三晩年の思想に通底する。そこに至るに先だって、両者の間を結ぶヘルダーとハーマンの違いを押さえておく必要がある。回心後のハーマンを啓蒙の立場に奪還しようと大学時代の友人ベーレンスが試みたとき、彼はカントに助力を乞うた。会見は物別れに終わるが、カントはなおも「子供用自然学教科書」の共同執筆をハーマンに提案する。1720年代、「学者の自然学」と「子どもの自然学」の区別が立てられていた。自然学的知見を踏まえた前者に対して、子どもが自然に近づく途として、神の現存を審美的に知覚させる「子どもの自然学」が擁護されたが、カントはそのような自然学的神学の途を愚かとして、自らの『一般的自然誌と天空の理論』(1755)の内容を子供用教科書にも適用しようとした。これに対してハーマンは、自然法則は人間の想像力の暫定的な到達にすぎず、「自然の債務者」としての人間の義務を創造の意図として記す「モーセの物語」はなお「子どもの自然学」に相応しいと逆提案する。さらに「学問の歴史的構想(プラン)は論理的構想(プラン)に勝る」(ZH1,446/96)と述べ、世界の起源をのべる自然学神学の立場を「歴史的構想」として一応は擁護する。しかし、創造の自然を受肉・受難に先立つ謙卑の出来事としてキリスト論と深く結ぶハーマンは、『美学の堅果(くるみ)』において、自然の内に歴史をいっそう深く嵌入させる。支離滅裂に矛盾し、有限で罪深い人間の歴史(贖罪論)をもその内に読み込む仕方で、自然は歴史化される(呻く宇宙)。自然や歴史の語り出す言葉は、意義を隠した神話として、そのつど啓かれる出来事となる。そのような世界の詩的・神話的理解において、ヘルダーはハーマンの跡を継いだ。しかし一方で彼は、『美学の堅果(くるみ)』における、自然のキリスト論的な核心を見落とした。むしろ歴史の内に、有機的な生の展開として(自然法則のように)それ自体で発展していく「力」の働きを認めようとする。自然科学が自然を見る仕方に倣い、歴史を法則の展開と見るという意味において、歴史はむしろ自然化される。これは、進歩史観として様々に変容しつつ次代に引き継がれていくが、内村鑑三の『地理学考』もその展開の端に現れたのである。内村鑑三の生きた19世紀末の自由主義キリスト教世界もまた、歴史を自由への発展の図式と捉える点では軌を一にしていた。聖書の「終末論」はほぼ完全に忘却されていた。

 ハーマンは、造物主の崇高性をのみ見つめる自然学神学を(その数学的理論的、審美的解釈学的のいずれをも)斥ける。この点で、「空ノ鳥ト野ノ百合花」にみた内村鑑三の天然理解はまだ曖昧である。内村の歩みは、これを自ら検証していく「実験」となる。先に、日清戦争から日露戦争にかけての内村の歩みを辿った。内村は『東京独立雑誌』を創刊し(1898.6)、自らの雑誌で社会批判を展開したが、社会の批判や改革では癒し得ない問題があるとして、人の魂の改変を志向し、『聖書之研究』を刊行する(1900.9)。注目すべきは、その歩みと併行して内村が、文学、殊に詩と詩人の使命に着目し、その主題へと繰り返し立ち返ることである。訳詩集『愛吟』(1897.7)を刊行し、愛唱する詩を紹介する際に「詩は何なる乎」と問い、そのモットーに、ホイットマンの言「大なる思想が詩人の天職なり」を引いている。さらに詩論集『月曜講演』(1898.3)では「詩人の創造すべきものは思想なり、観念なり」と述べている。この時期、内村は詩に関する評論や断章を次々と記している。表題を挙げれば「古今集擅評」「秋の歌」(1898)、「大詩人の心事」「詩人の事業」「如何にして夏を過さん乎」(1899)、「人と天然」(1901)「歌に就て」(1902)……。関心の在処は明らかである。「古今集擅評」には、和歌の中にも「造化」を見すえ、その「偉想」を述べたものがある(6;178,6;185)と例示され、「如何にして夏を過さん乎」には「そこで天(ネチユ)然(アー)詩(ポエ)人(ツト)の必要が来るのである、詩人は天然の註解者である、[…]詩人は科学の正反対どころではなく其結局である」(7;190)と述べられる。詩人は、詩美を詠うのみならず、(進化の問題をも含む)天然造化の仕組みをも洞察しつつ、真理の源なる神をも見つめる者とされる。「人と天然」にも、その意味での「天然詩人」が必要と要請される。「天然は神の衣裳である[…]。天然詩人は天然物に神と人との心を読む者である」(9;106)。天然詩人に、理論的、審美的いずれの意味においても、自然学神学の担い手が望み見られている。

 すでに「空ノ鳥ト野ノ百合花」における内村の立論が、明らかに自然学神学のそれであった。無神論、有神論それぞれに立つ自然研究を対比し、自然法則の巧妙の背後に神を見るか否かの問題を提起するが、自然学者の視点からの法則の整合のみならず、ブライアントの詩を引いて自然現象への感得享受をも美の内に含めている。内村においては、論理的数学的な自然学神学と審美的解釈学的なそれとが一つに結んでいる。それは、「秋と河」(1907)の記述に窺えるように、自然は自然学徒内村を育てつつ、彼を全存在的に包んで神を感得させる恩恵であったからであろう。内村の感受性を深く捉えた風光は、彼の審美感と詩的感受性を育んだ。「聖書之研究」の誌面には、折にふれて詩歌が掲載され、毎号の巻頭に「所感」と題して数編の断章が載せられている。その小文は、詩と呼びうる抑揚を備えている。「天然の愛」(1909)と題して、崇拝するのではなく「天然は之を神に達する足?とすべし」(16;321)と述べているが、季節や花々に寄せて神を想う文章はどれも豊かな詩美を湛えている。自然研究者の立場を一度は取った者として、内村は法則としての自然・社会の進化の意味を常に問いつつ、審美的な自然(学)神学を詩人と共にしている。9)

 いまひとつ気づくのは、この時期の内村においては、天然とキリストとが別々の文章で論じられている点である。イエスの譬えを講解する場合など、自然神学的な展開が予想されるところでも、「種蒔きの譬え」(1909)他で、天然そのものが主題化されることはない。辛うじて「天然詩人としての預言者エレミヤ」(1909)において、自然の事物が救済論に結ばれるが、他に内村の文章で創造論と贖罪論が直に結ばれることはない。漸く「近代に於ける科学的思想の変遷」(1910)で初めて、「キリストは神と人とを繋ぐ者であるのみならず、又神と全宇宙を繋ぐ者である」(17;95)と紹介される(「キリストに関する思想」)。ただ、「神」を宇宙の霊魂として、宇宙の衷に見、「宇宙」を有機体とし、ある目的に向かって進むその宇宙において「進化はその法則」とするこの紹介文は、内村の永年の問題意識である「進化論」の位置付けへの関心は伺わせても、救済や贖罪の位置付けに関して曖昧なものを残している。その宇宙観も、内村にとって決して新しい発見ではなく、『地理学考』の、ヘルダー的な有機的世界の進歩史観からさほどの隔たりを感じさせない。

 「近代に於ける科学的思想の変遷」の「天然に関する思想」で、「天然は戦争のみではない、又調和である」(17;90)と述べ、「神の何たる乎を知るに二ッの途がある、其第一は天然である、其第二は聖書である」(17;143)と記し、天然の破れ曲折を認めてもなお神の聖意を示すとして、内村は自然神学的な天然観を表明している(「神の努力」1910.2)。これに亀裂を生じさせたのは愛嬢ルツの死(1912.1.25)であった。この経験は、内村に復活待望の信仰を確固としたとされるが、一方で、所謂「自然悪」の問題をも(実存に食いこむ問いとして)内村に突きつけた。その後に記された「二ツの神」(1912.4)において、「天然の神がある、黙示の神がある、二者は同じ神であつて又別の神である。天然の神は残酷である、無慈悲の神である[…]。之に反して黙示の神は恩恵の神である、慈悲の神である[…]、如何にして二者の調和を計らん乎[…]、神は果して二ツである乎」(19;70)との問いが立てられる。ここで内村は、はっきりとキリストに向き合う。「彼が救主たる所以は彼が其身を以て人生の此謎を解き給ふたからである。[…]天然は神の顔(か)貌(お)である、[…]其の顔貌は醜くある、而して其心ではない[…]、而してその醜き顔に於て其美はしき心を認むる、是を信仰と称するのである、[…]、二ツの神はやはり一ツである、深き矛盾を以て深き自己を顕はし給ふ讃むべき尊むべき一ツの神である」(19;71)。キリストの出来事に集中する時、審美的自然学神学は完全に斥けられる。

 「天然は神を離れて自動す、而して神は天然を離れて人を恵み給ふ」(19;205)と述べ、内村は自らの「実験」を通して、天然から神への滑らかな接続・移行を、理論的にも審美的にも否定した(「神と天然」1912.9)。こののち内村が最晩年に、同じく「神と天然」(1923)の表題のもと、「天然は第二の聖書である。第一の聖書は直(ただち)に聖旨其物を伝へ、第二の聖書は覚官を通うして間接に同じ聖旨を伝ふ。神の律法と天然の法則とは其根本に於て一ッである」(26;91)と述べても、それは、矛盾と言うより、屈折を経た後に、新たな意義を加えた表現と見做すべきであろう。

 果たしてさほど時を措かず、内村の信仰を揺さぶる出来事がいまひとつ生じた。第一次世界大戦において、キリスト教国がこぞって相争う事態と、内村がなお望みを託していたアメリカの参戦である。それは、キリストの福音の伝播と市民社会の進展が同伴するという、内村も共にしていた歴史観を暗礁に乗り上げさせた。その苦境は、「聖書研究者の立場より見たる基督の再来」(1918.7)に述べられている。「進化論的天然学又は歴史学」(24;58)は覆され、内村は「絶望の深淵に」陥ったと(24;60)。この危機はしかし、聖書に集中し、その終末論の再発見によって乗り越えられる。「基督再臨を信ずるより来たりし余の思想上の変化」(1918.12)において、内村は「再臨が解って余は天然が解った」(24;389)と告白する。歴史の進展という世界の内在においてではなく、再臨のキリストにおいて、世界の外から真の平和はもたらされる。造化天然とキリストが初めて一つの文脈に結ばれる。そこで内村はロマ書8章21節を引用する。「又受造物(つくられしもの)自ら敗壊(やぶれ)の奴(しもべ)たることを脱(のが)れ神の子等の栄(さかえ)の自由に入らんことを許されんとの望(のぞみ)を有(もた)されたり」。かつて、「神の努力」(1910)にも、ロマ書8章22節を引いて「被造物の呻き」の事例が列挙されていたが、内村は今その声を自らの内に明確に聴いたのである。しかしそれは、宇宙完成への希望の放棄ではなく、その実現を、キリストにおいて歴史の外に望ませることとなった。「キリスト再臨の信仰は聖書を新しき活きたる書として余に与えた」(24;391)。破綻を含みつつ、天然は新たな意味で「第二の聖書」としての相貌を示しつつ現れた。内村は最晩年、「楕円形の話」(32;207)において、真理の二つの焦点を示唆しているが、(進化の問題もを含め)天然の完成への道筋は、キリストにおける神の経綸と二つながら結びつつ、新たな待望の構図を描き出すに至る。それは、聖書の「神の国の福音」の本義への立ち返りに他ならなかった。「天然万物の呻き」は、内村鑑三晩年の「羅馬(ロマ)書講義」(1921-22)おいて、またそれを著した『羅馬書之研究』(26;307-318)において講解され、内村の生涯を締め括る「宇宙の完成を祈る」という辞世へと通じてゆく。

 20世紀初頭に、バルトなどの危機の神学(弁証法神学)やシュヴァイツァーにおける終末論の再発見などを契機として、キリスト信仰は、宗教と文化の進展を同次元のものと楽観視してきた近代自由主義から決別していく。この歩みを、内村鑑三もまた同時代的に先取りする。近代の進歩史観と自然学神学の展開は破綻し、乗り越えられて「呻く宇宙」へと収斂し、新たな救済史と自然神学を形作るに至る。近代の自然・歴史の進歩思想の起点と終点において、内村鑑三とハーマン、二人の人物と思想は「信の類比」において形を等しくする。


[註]

 1) ハーマンの著作からの引用は、Hamann, Johann Georg: Sämtlische Werke Bd. 1-6, hrsg. v. J. Nadler, Wien 1949-1957, またHamann, Johann Georg: Briefwechsel, hrsg. v. W. Ziesemer u. A. Henkel Bd.1-7, Wiesbaden 1955-1979。本文中に、それぞれ初めにN, ZHと略記し巻数、頁数の順に示す(例、N2,65)。/ 翻訳のある場合は『北方の博士・ハーマン著作選 上/下』川中子義勝訳(教文館 2002)。原文頁数の後に、/頁数で示す(例、N2,65/25)。

 2) Vgl. Grüunder, Karlfried: Figur und Geschichte, Johann Georg Hamanns "Biblische Betrachtungen" als Ansatz einer Geschichtsphilosophie, Freiburg/München 1958, S.116ff.

 3) Kawanago, Yoshikatsu: Johann Georg Hamanns Beziehungen zur Kreis vun Münster, in: Herder-Studien Bd.5, Tokyo 1999, S.100. / 「J・G・ハーマンとミュンスター敬虔派サロン(アマーリエ・フォン・ガリツィン生誕250年特別賞受賞記念講演)」、『ドイツ近代文学における啓蒙と宗教の関わりの系譜』平成7-9年度科学研究費補助金成果報告書 (1998)31頁。

 4) 内村鑑三全集 全40巻 1981-1984、第29巻、343頁(「クリスマス夜話=私の信仰の先生」)。以下、本文中に(巻数;頁数)と表記。例(29;343)。また、上記成果報告書40頁。

 5) 山野正彦『ドイツ風景論の生成』(古今書院)1998,44頁。

 6) 川中子義勝「内村鑑三『地理学考』考――嶋田洋一郎〈ヘルダーとナショナリズム再考〉を契機に」、日本ヘルダー学会編『ヘルダー研究』第17号(2011) 11頁以降。

 7) Physikotheologieの術語は18世紀前半には存在しない。思想の術語として定着するのは、カント「神の存在を示す唯一可能な証明根拠」(1763)以降である。新たな術語であることを表すために「自然学神学」と訳す。Vgl. Steinmann, Holger: Absehen-Wissen-Glauben. Physikotheologie und Rhetorik 1665-1747, Berlin 2008, S.20. ハーマンはこの術語を用いず、生来の(natürlich)「理性の光」だけでも神認識に達しうるとするこの思想を、同時代に一般的な表現で、専ら「自然宗教natürliche Religion」とのみ呼んでいる。

 8) Vgl. Graubner, Hans: Der junge Hamann und die Physikotheologie, in: Johann Georg Hamann, Natur und Geschichte, Acta des Elften Internationalen Hamann-Kolloquiums an der Kirchlichen Hochschule Wuppertal/Bethel 2015, Göttingen 2020, S.35ff.

 9) 川中子義勝『詩学講義――「詩のなかの私」から「二人称の詩学へ」』(土曜美術社出版販売)2021、300頁以下(第13章「〈呼びかけ〉に応えて――詩人 内村鑑三」)。


ハーマンに関する別な論考→●「ヒュメナイオスの秘義」



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