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「北の博士・ハーマン」
 

★「ハーマンの思想と生涯」につづいて著しました。ハーマンの著作活動について、文学と思想の視点からいっそう詳しく述べています。
 前半は学位論文の内容に基づくもの、後半「C 究極の時を望んで」はドイツ研究滞在を経て「国際ハーマン学会」に参加するようになって以降のもの。国際レベルで評価された独自性という点で、ハーマンの文体と「黙示」との関係を論じた「バビロニアのエルサレム」を、著者自身は(自分がハーマンについて記した文章の中で)最も重要視している。

★川中子義勝 著 「北の博士・ハーマン」 沖積舎

1996年刊行 本体価格3500円(消費税別)
ISBN 4-8060-4618-3 (トーハン 扱い)

●沖積舎 TEL 03-3291-5891 振替 00130-7-177632

★Copyright (C)  川中子義勝 1996


★「北の博士」  目次

はじめに 「北の博士」
 第一章 自己の両義性―一つの人間学の系譜
A 預言者として立つ
 第二章 対話的な自己へ―ハーマンの回心
 第三章 啓示と言葉―『聖書考察』の言語思想
 第四章 ソクラテス的実存―キリスト教的著作家へ
B 感性と形象の新しい途
 第五章 啓示と形象―ハーマンの解釈学
 第六章 「カバラ的散文の狂想詩」―『美学提要(びがくのくるみ)』の文体論
 第七章 魂(いのち)と傷跡―二つの批評家論
C 究極の時を望んで
 第八章 終末論と文体―カント歴史哲学を批判して
 第九章 「バビロニアのエルサレム」―『脱衣と変容・天翔る書簡』の黙示的文体
 第一〇章 荒野の声―移りゆく時代の辺境に


★「北の博士」  序文から

 ドイツの冬は暗い。10月の声を聞くと、昼が日毎に短くなるのを肌で感じ る。天候も曇りがちになり、自然は全ての色彩の上を灰色の膜でおおうかのよう だ。街のはずれの丘に力無く沈んでいく色あせた夕の陽、その薄い光を感じつつ 家路を辿ると、なにか喪失感のような愁いの想いにとらえられる。存在の寂しさ といったら大げさかもしれぬが、ある種の空虚を路ゆく誰もがいだいているよう で、人皆これまでになく足速に行きすぎていく。それが、重苦しく長い冬に備え る心のリズムなのだろう。
 それだけに、暗く長い夜のつづく中にひときわ明るく輝いている年の瀬の数 週間は、子供のみならず大人の心にも、夜道の彼方にきらめく家の灯を見るよう な憧れと希望を呼びおこす。教会暦はこのような喜びを望みつつ、ユリウス暦よ りもほぼ一月早く始まる。降誕節に先立つ四週間、それは、「夕があって朝があ る」(創世記 1,5)という聖書の希望のリズムを担っている。この〈待降〉の時 期、街の広場にクリスマスの市が立つと、屋台の明かりは、四方にのびていく路 地の闇に対して築かれた城塞のように自らを照らしだす。冗談と警句の交わされ る中、ここだけに人々の生業は活きているかのようだ。いや、おそらくはその路 地の向こうにも、一つ一つの家の灯のともされるところ、喜びと希望の火は小さ な歌声となって、心から心へと伝えられているのだろう。

  毎年毎年繰り返し、
  嬰児キリストは降って来られる。
  私たち人間の住まう
  この地上に。

 ドイツの幼い子供たちが、まず最初に覚えるこの降誕節の歌は、どこか、日 本の「年の初めのためしとて」を思わせる響きをたたえている。伝統と習慣に拠 りたのむことのできる安心感を、それは醸しだしている。ドイツのクリスマス、 それは喜ばしく、しめやかで、交わりの控えめな喜びと、慎み深い明るさとに充 たされている。どんな町中であっても、ある種ののどかさを失わない。その雰囲 気は、誰の心にとっても、冷たく硬直した自然と厳しい社会生活のただなかにあ って、日々を秩序づけてくれる命の血脈の役割を果たしている。
 降誕節の聖日、その祭りの頂点において、親戚や友人との交わりは回復され 、いっそう深められる。その後、馬鹿騒ぎと花火ですごす大晦日から新年へと移 りゆく日々は、むしろこちらを一年の頂点として祝う東洋人にはいささか味気な い。しかし、祭りはまだ終わったわけではない。例えばJ・S・バッハの『クリ スマス・オラトリオ』の演奏期日の指定を見ると分かるように、降誕節の祝いは 、正確には1月6日までつづく。この日は、〈顕現節〉と呼ばれ、イエスの受洗 の故事やカナの婚礼(ヨハネ2章)の記事などに結びつけて、神の支配の顕れを 記念する日とされてきた。これも元来は異教起源の祭りをキリスト教世界に換骨 奪胎したものらしい。この日は現代では、南のカトリックの地域において、〈聖 三王節〉として休日の指定がなされている。その日には、旧くから子供たちが聖 三王に扮して家々を歌いめぐり、物乞いをしてまわる習慣があったという。
 この聖三王の由来は、詩篇72篇10‐11節の、「多くの貢ぎ物を携えて きた諸々の王が彼の前にひれ伏す」という「来るべきイスラエルの王」について の預言に基づいている。〈聖三王節〉とは、この預言がキリスト誕生の折りに成 就したことにちなむ祭りであるが、その起源はせいぜい8世紀頃に還るものであ るらしい。その聖書の出典はマタイ福音書2章1‐12節で、そこには「東から 来た博士たち」とのみ記されている。「黄金、乳香、没薬」という貢ぎ物の数か ら3人と推測されるのである。彼らは「東の方で星を見たので」ユダヤ人の王の 誕生を知って、拝みにきたという。そこから知れるように、彼らは今日で言う〈 占星術師〉であった。しかしそれは当時、妖かしの技術に長けた〈魔術師〉とい う今日のイメージと違って、最高水準の知性を備えた学者を意味していた。聖書 もまた、天文の知識に通じた当代の英知、「東の博士」たちが、真の智恵の持ち 主、真理の王の誕生を知って、嬰児キリストを崇むべく尋ねてきたと述べている のである。
 東の国、政治的強権の支配と人々の蒙昧の織りなす夜の世界。喘ぎと嘆きの 声のみが時折響きわたる。その闇の底にあって、差し初める一条の光と、それに よって回復される命と智恵の秩序を日々探求しつつ、久しく待ち望んでいた「博 士」たち。彼らは、今待望の星を見て、荒れ野の危難と幾月日の旅路をも顧みず 、ユダヤのエルサレムを尋ねてくる。だが、この街もまた圧政と奸計の支配する ところであった。人々の慌てふためくなか、むしろこれまで彼らを導いてきた星 、この万象を統べ導く者の徴に信頼して、彼らは念願の嬰児に出会う。帰路、彼 らをヘロデの策略から免れさせたのも、この宇宙の法を治める者の導きであった 。バッハの『クリスマス・オラトリオ』の第5曲・第6曲は、この東の博士たち の到来とキリスト礼拝、また帰還を扱って、彼らの喜びを生き生きと描いている 。そこでは、キリストの迫害者らの策謀をもまざまざと描きつつ、これを無に帰 する神の智恵の途が、透徹した現実認識をもって示されている。
 18世紀の中頃、ドイツの北の果て、バルト海に臨む町ケーニヒスベルク。 この街に、この「東の博士」の故事にちなんで、「北の博士」と称えられた一人 の思想家がいた。ヨーハン・ゲオルク・ハーマン(1730‐1788)。彼は 、その寸鉄のごとき言葉と、激情の溢れ炸裂する思想とによって、思想界また文 学界の注目を集める存在となった。博識と洞察の鋭さをもって読者を惹きつけて やまぬその簡勁な表現は、ヘルダーやゲーテの疾風怒濤の時代を導き、その成熟 に大きな役割を果たした。またその思想性の深さは、ロマン主義の世界観・自然 思想の成立に多大な影響を及ぼした。シェリング、ヘーゲルのドイツ観念論哲学 、またこれと対決したキルケゴールの実存思想にまでその影響は及んでいる。謎 と挑みに充ちた彼の著作は、かえってその表面的な理解を拒む言葉の昏さゆえに 、時代の知性の冒険を招く場となったのである。「北の博士」という半ば畏敬を 含んだ称号は、そのような彼の著作に開いた人格と思想の深みを覗き見る表現で ある。
 ハーマン自身の志向は、彼の時代の主潮をなした啓蒙主義、ことにベルリン 啓蒙主義の「光の志向」と対決することにあった。彼は、そのような時代の理性 信奉の表面的な明るさの希求が、むしろ、知者も民衆も等しく服従させ、その魂 の腐敗を醸成する闇の支配を覆い隠すことを、指摘する。彼は、メンデルスゾー ンやカントなど、彼自身が思想家としてまた友として重んじる人々の著作・発言 をその本来の文脈に差し戻していく「再批判」を自らの方法とした。この、ソク ラテスに学んだ対話の途によって、彼は、啓蒙の克服すべき闇は啓蒙の批判の営 みの外側に存するばかりではなく、むしろ啓蒙理性の本性それ自体の中にも潜む ことを指摘した。何よりも、ハーマンは、彼の時代の闇、「ヘロデの奸計」を、 時の啓蒙専制君主フリードリヒ2世の上からの開明政策に見出した。当代の啓蒙 の知に阿りつつ、その懐柔によって宗教的後見、軍事的統制、税務的徴収に努め たこの王の自己栄化の志向に、ハーマンは、キリストの命をつけ狙ったヘロデ大 王の迫害を見たのである。そのような「三重の抑圧」を覆い隠した、時代の理性 信奉者の「啓蒙の光」ではなく、聖書の示す導きの光、キリストを指し示す新し き「明けの星」を指し示すこと、これが「北の博士」の新たなる「ベツレヘムへ の旅」となった。
 「汝らの賢者の好奇心を新たなる星々によりて目覚めさせ、我らがために汝 らの宝を田舎へと担い行かしめよ。没薬、香煙また汝らの黄金の価は我らにとり て汝らの魔術にまさる。これによりて、王侯どもを欺き、その哲学の詩神をして 幼子とその教えを虐げんと空しく息を荒だたしめよ。されどラケルをして甲斐な く泣かしめてはならぬ〔マタイ2・16‐18〕」。
 著者はすでに一度、『ハーマンの思想と生涯』(1996)と題する評伝において 、そのような「啓蒙の啓蒙」、すなわち啓蒙理性の自己批判の途としてハーマン の思想を跡づけたことがある。ハーマンの理性批判は、頑なな信仰哲学に立つ反 合理主義ではない。むしろ理性の力と限界を正しく位置づけることを目指すもの として、カントの理性批判にもなお残るところの不徹底を指摘する。時を隔てて 、20世紀末の日本から眺めるとき、そのようなハーマンの営みは、むしろカン トの隣に肩を並べて立っている。その方向を追求しつつ、著者が前著で企てたこ とは、時代状況の中にハーマンの生と言葉を大まかな筆致で描き込む営みであっ た。そのように、素描の粗い線で「北の博士」を紹介した後、さらに彼の言葉を 具体的に辿りつつ、ことにその信仰の実存の深みを窺いゆく、いわば淡彩をほど こす作業がなお残されている。堅牢な画面を描きあげるのは著者の務めではない 。時代の闇に立ち向かい、真の現実を獲得しようと闘うハーマンの言葉の動き、 その文体の息づきと鼓動をなんとか汲み取ってきたいと願う。本書では、主とし てハーマンの活動の文学的側面に照明を当てつつ、彼の思想を「言葉」の現実に おいて提示することを心懸けていく。

 


★川中子へのおたよりは
kawanago[AT]js2.so-net.ne.jp
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