2025年1月19日 メッセージ要旨
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 束縛を解かれる主の救い

                         ルカの福音書 13章10~17節
 
                                                                                                                                      
     
 この人はアブラハムの娘です。それを十八年もの間サタンが縛っていたのです。安息日に、この束縛を解いてやるべきではありませんか。
                                     ルカの福音書 13章16節
                           
 腰が曲がって全く伸ばすことができなかった女の人は、人類の惨めな状態を暗示しています。すべての人が生まれながらに罪人であり、そのままでは神の御前でまっすぐに立つことができないのです。
 けれども、十字架の上で人々の罪を負ってくださったキリストによって、信じる人は罪赦され、神と和解し、まっすぐに立って神をあおぐことができるようになるのです。
 神はこの恵みに人々を呼び寄せておられます。女の人も救いへと呼び寄せられ(12節)、腰が伸びて癒やされました(13節)。イエス様が病から解放してくださったのです(12節)。
 ところが、会堂司は安息日に癒やしを行ってはいけないと言って、水をさします(14節)。当時のユダヤの安息日は、本来の精神が失われて形式化し、労働とみなされる行動が事細かに禁じられる日となっていました。日常から解放されるどころか、かえって縛られる日となっていたのです。
 安息日に自分の牛やろばをほどくことが許されるのなら、なぜ人が、しかもアブラハムの娘が束縛を解かれることがみこころにかなわないのか。18年もの間、病に縛られていた人を放置するのが安息日なのか。当時のユダヤの安息日の規定が、神の真理に基づくものではなく、いかに自己流であったかを、イエス様はあらわにしました(15~16節)。
 神は人を縛りつける方ではなく、人を解放してくださる方です。人を縛りつけるのはサタンです(16節)。世人は自由なようで、金銭に囚われ、欲望に囚われ、地位や名声に囚われ、トラウマや迷信に囚われています。その背後にサタンの働きがあるのです。
 もしこの女の人が安息日の会堂の礼拝に長い間通い続けていたのだとしたら、その間ずっと彼女は腰が曲がったまま解放されずにいたことになります。会堂司が「安息日に癒やしてはいけない」という戒律に縛られているのですから、安息日の会堂で癒やしが行われなくても、当然と言えます。何かに縛られている人は、他の縛られている人を解放することができないのです。
 会堂司は自分に断わりなしにイエス様が安息日の会堂で癒やしを行ったことを憤りました(14節)。会堂司としての自分の地位が侵害されたように感じたのです。この人は会堂司という地位にも縛られていたのです。
 真理を知ることで、人は縛られているものから解放されて自由になります(ヨハネの福音書8章32節)。囚われていたものが、価値あるものでも、恐れるようなものでもないことを、真理によって明らかにされ、自由にされるのです。
 人々を救いへと呼び寄せておられる主の招きをはばまないためには、私たち自身が自由にされていることが大切です。絶えず主を仰いで、主の真理のみことばに照らされ(ヨハネの福音書8章31~32節)、真理の御霊の臨在の中を歩むことで自由にされるのです(ヨハネの福音書14章17節. コリント人への手紙第二3章17節)。そのようにして、縛られている人々を主の救いへと導いてまいりましょう。