2025年1月12日 メッセージ要旨
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 主の御声について行く羊たち

                         ヨハネの福音書 10章1~11節
 
                                                                                                                                      
     
   牧者はその先頭に立って行き、羊たちはついて行きます。彼の声を知っているからです。
                                     
                                       ヨハネの福音書 10章4節
(抜粋)          
           
 羊たちは牧者の声を聞き分け(3節)、その声について行きます。牧者の声を知っているのです(4節)。私たちは主の御声を知っているでしょうか。
 主の御声を聞き分けるには、普段から御声を良く聞いて知っている必要があります。具体的には、聖書のみことばを通して主の語りかけを聞くということです。日ごろから主と親しく交わり、主がどのような方なのか、そのみこころは何か、何を求めておられるのかを、良く知っていることが大切です。そのようにしていれば、一つの声に対して、それが主の御声なのか、それとも別の声なのかを、判別することができます。
 良い牧者であるイエス様は、私たちのためにいのちを捨ててくださいました(11節)。すなわち、私たちの罪を負って十字架に死なれ、よみがえられて、私たちに罪赦されて神と和解する救いの道を開いてくださったのです。
 イエス様は救いに入るための門です(9節)。十字架で流された血によって罪を贖ってくださったキリストという門から入ることで、人は救われるのです。
 パリサイ人たちは罪ある人間であるにもかかわらず、聖なる神の御前で自らを義とすることができるかのように自分自身に拠り頼んでいます。イエス様という門から入らない、すなわち、イエス様の血によって贖われる必要を説かない彼らは、羊たちから救いを奪い取る強盗なのです(1節)。
 自分を頼みとする世人は、自分で将来を切り開いて行かなければなりませんが、主について行く私たちには、先頭に立って行かれる主の導きがあり(4節)、その先には、緑の牧場、いこいのみぎわがあります(詩編23篇2節)。すばらしい恵みと祝福へと主は私たちを伴ってくださいます。
 けれども、世の多くの人々の目には、主に従うよりも、自分の思うままに生きた方が、束縛されず良いように見えるでしょう。主の門は、狭い門なのです(マタイの福音書7章13~14節)。なぜなら、主に従う者も十字架を負わなければならないからです(マタイの福音書16章24節)。
 しかし、この狭い門の先には救いがあり、出入りする自由があり、牧草にありつく恵みがあるのです(9節)。
 一方、世の多くの人々は、自由なようで欲望に囚われ、満たされない日々を送っています。主の御声に従うことで、人は真理を知り、自由にされるのです(8章31~32節)。
 いのちを豊かに得るとは(10節)、具体的には聖霊に満たされることです。神のいのちの息である聖霊に満たされることで、人は満ち足りるように造られているのです(創世記2章7節)。
 牧者が羊たちの名を呼ぶということは(3節)、一匹一匹のことを良く知っていることを示しています。神は私たち一人一人を、かけがえのない大切な存在として知っておられるのです。なぜなら、神はすべての人の造り主だからです。
 良い牧者である主が先頭に立って、すばらしい祝福へと私たちを導いてくださいます。主の御声を良く聞いて、その御声に従ってまいりましょう。