2024年9月15日 メッセージ要旨
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良くなるためには

                         ヨハネの福音書 5章1~18節
 
                                                                                                                                      
     
 イエスは彼が横になっているのを見て、すでに長い間そうしていることを知ると、彼に言われた。「良くなりたいか。」

                                     ヨハネの福音書 5章6節
                                                                 
 天使がベテスダの池に降りて来て水を動かし、その時最初に池に入った者が癒やされるという迷信に人々が期待していたため(7節)、この池には、水が動いた時いち速く池に飛び込もうと待ち構える競争があり、病気で横になっているというに、安静どころではない場所であったと想像できます。
 この池の光景は、現代の競争社会を連想させます。この世で成功しようと、良い学歴を得、良い仕事に就こうとする、そこに優劣があり、安らぎがありません。まことの癒やし主であるイエス様をよそに、大勢の病人が池に目を向けていたように、現代の多くの人々が、主のもとにある救いと安らぎと本当の幸いをよそにして、この世に目を向けています。
 三十八年も病気にかかっていた人が癒やされた、すばらしい主のみわざが行われたにもかかわらず、その日が安息日であったため(9節)、ユダヤの当局者たちは、その癒やされた人が床を取り上げるのをやめさせようとしました(10節)。彼らは安息日に物を運ぶことを禁じていたのです。
 七日目に創造のわざをやめられた神の安息を反映する日として、人が休息し、神を覚えるために設けられたのが安息日です(創世記2章3節)。その本来の精神を見失って、ユダヤの当局者たちは、彼らの戒めによって、安息日を労働とみなされるいかなる行動も禁ずる日としてしまいました。彼らがそのように安息日を厳守していたのは、人に認められるためであって、神を求めていたからではなかったのです(42節.44節)。
 「『取り上げて歩け』とあなたに言った人はだれなのか」(12節)と問い詰められたこの人は、ユダヤ当局を恐れ、自分を治したのはイエス様だと告げて(15節)、宮で親しく現われてくださったイエス様を(14節)、迫害に追い込んでしまいます(16節)。目が癒やされたバルティマイが、イエス様について行ったのとは対照的に(マルコの福音書10章52節)、この人はすばらしい癒やしの恵みにあずかりながら、イエス様を主として従って行くのではなく、ユダヤ社会の中で、すなわちこの世で平穏に暮らす道を選んだのです。
 イエス様が彼に目を留めて癒やされたのは、助け手もなく、自力でも救われない(7節)、何の拠り所もない、主の救いを一番必要としている人だったからです。私たちは神だけが救いの拠り所となっているでしょうか。
 この世で成功し、良い暮らしをするのが、良くなることだと人は考えます。しかし、神が思い描かれる良いことは、そのようなことではありません(イザヤ書55章8節)。人が神の導かれる幸いな道を進むには、自分を捨て、信頼して自分を神にゆだねなければなりません。
 神との良い関係にあることで、人は神のいのちにあずかり、良い存在となります。世人に主の救いを知らせる私たち自身が、神との良い関係を築いて、あふれる恵みの器となるよう、歩んでまいりましょう。