2024年7月28日 メッセージ要旨 | ||||
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メッセージ 丸山豊牧師 子どものように マルコの福音書 10章13~16節 |
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イエスはそれを見て、憤って弟子たちに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。邪魔してはいけません。神の国はこのような者たちのものなのです。 マルコの福音書 10章14節 |
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主が弟子たちに憤られたのは福音書においてここだけで、主は、「‥子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。」と言って彼らを抱き、祝福なさった。 親は、子どもがよい学校に入り、良い勤め先で働き、家柄の良い人と結婚できるようにと、教育、知育、体育、徳育をほどこすが、霊育が欠けている。 大人たちがキリストを信じないのは勝手だが、自由意志を持たない子どもたちを、「どうせ、聖書の話は理解できないだろう、騒いで厳粛な礼拝の邪魔をするかもしれない。」と締め出してしまったら、キリストに出会う手立ては教会以外にあるのだろうか? 子どもを活かすも殺すも大人次第で、イエス・キリストご自身が、弱く、価値のない子ども(パイデイヤ)として、両親や神の愛に育まれて成長なさり、「‥これらのわたしの兄弟たち、それも最も小さい者たちの一人にしたことは、わたしにしたのです。」(マタイの福音書25章40節)と言って、子どものような存在に対する配慮を、主はご自分の事として喜んでくださる。 「子どものように神の国を受け入れる」とは、自分の弱さ、価値のなさ、頼りなさを認め、神の無条件の愛を受け入れることで、神の選び、救いは、自分の能力・知識・意志によるものではない。神の国に入るための資格や条件も、救われるために満たさなければならない条件も、差し出さなければならない代価も全く持たない者が救われて、教会に集うことを許されているのは、イエス・キリストが十字架にかかって、ご自分を全きいけにえとして神にささげ、罪の代価を完全に支払ってくださったからである。誰一人、自分の意志や力で神のみもとに来ることはできない(コリント人への手紙第一1章26~28節)。 イギリスの牧師ジョージ・ミュラーは、10歳の頃既に泥棒をし、賭け事をし、酒を飲み、遊び呆けていた非行少年だったが、1825年、友人に誘われて小さな家の集会に行き、そこでイエス・キリストに触れていただき回心すると、世俗に頼らず、神のみに頼るという方法(フェイス・ミッション)を生涯貫いて、一万人の孤児たちを救済した。 神の国に入れられた者たちに対する賜物は、この「選び」と「救い」だけではない。ヨハネ福6:35-40には、飢えることも、かわくこともなく(35節)。外に追い出されず(37節)。一人も失われずに永遠の命を持ち、終わりの日によみがえらせ(39節、40節)、孤児にはしない(14章18節)とある。 子どものように主に信頼する私たちも、一人の成熟した大人となって、キリストの満ち満ちた身丈にまで達することを(エペソ人への手紙4章13節)主は臨んでおられる。 成熟した大人として、子どもたちをイエス・キリストの許に連れて来て、世の悪から見守ってあげよう。(丸山豊牧師) |
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