2024年6月23日 メッセージ要旨
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                                                    メッセージ 丸山豊牧師

                        一粒の麦

                                         ヨハネの福音書 12章24~25節                                                                                                                                       
  
  まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままです。しかし、死ぬなら、豊かな実を結びます。自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世で自分のいのちを憎む者は、それを保って永遠のいのちに至ります。

                                   ヨハネの福音書 12章24~25節
                                                                 
 1909228日、真面目なクリスチャンで鉄道職員であった長野政雄さんは、自身の結納のために、実家のある札幌へ向かう途中の列車が塩狩峠に差し掛かった時、突然客車が外れて暴走し始めたので、必死でブレーキをかけて速度をゆるめました。しかし、それ以上ブレーキはきかず、この先には急こう配があるので、今のこの速度なら自分の体で暴走車両を止めることができると判断して線路に飛び降り、客車を完全に停止させて多くの人の命を救いました。長野さんの行為は、三浦綾子さんの小説『塩狩峠』によって広く証しされ、このみことばは、多くの人々に人間存在の意味を問い、豊かないのちの実を結ばせました。

 一粒の麦とは、十字架の死による罪の贖いと、復活による永遠の命への道を開いて下さったイエス・キリストにほかなならず(へブル人への手紙10章10節)、死に定められた人の命を永遠の命に新生させる神の新創造のみわざです(コリント人への手紙第二5章17節)

 この「一粒の麦」から発芽するいのちは、私たちの知るいのちとはまったく別の新しいいのちで、「自分のいのちを愛する」とされるいのちのギリシャ語はプシュケー(ψυχή)で、「永遠の命」とされるいのちはゾーエー(ζωή)が使われております。

 一粒の麦は、よく耕された砕かれた心(詩篇51篇17節)でなければ、30倍、60倍、100倍の実を結ぶことはできません。みことばを、サタンに取り去られてしまったり、困難や迫害によってつまずいてしまったり、この世の思い煩いや富の惑わしや、いろいろな欲望が入り込んで、みことばを塞いでしまったりして、永遠の命が発芽し生長しないからです(マルコの福音書4章の種まきの譬え)

 自由と平等を求めるフランス革命の英雄ナポレオンも、皇帝にまで上り詰めると、市民を守るための戦いが侵略、征服へと向かって行き、彼の帝国支配の欲望は留まるところを知らず、ヨーロッパ大陸の大半を勢力下に置きましたが、ナポレオンが51歳のときに同盟軍との戦いに敗れて、セントヘレナ島に幽閉され、そこで没しました。

 ある金持ちの青年は、主イエスの許にひれ伏して、「良い先生。永遠のいのちを受け継ぐためには、何をしたら良いのでしょうか。」と問いましたが、主イエスから、「あなたに欠けたことが一つあります。帰って、あなたが持っている物をすべて売り払い、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、天に宝を持つことになります。そのうえで、わたしに従って来なさい。」と言われ、顔を曇らせ、悲しみながら立ち去り、それを見た主は、「金持が神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通る方が優しい。」と嘆かれました。

 このように、生まれながらのいのちに固守する者が、永遠のいのち生きることは、ほとんど不可能、絶望的であるように思えますが(マタイの福音書7章13節)、すべての人が永遠のいのちに生かされることを神は願っておられます(ヨハネの福音書3章16節)

 現に、イエスキリストを喜んで迎え入れた取税人ザアカイは、「私は、財産の半分を貧しい人たちに施します。だれかから脅し取った物があれば、四倍にして返します。」と回心して、永遠の命に生かされる者とされました。

 私たちも、どんなに順風満帆な時であっても、この世の一時的な富や様々な思い煩いに惑わされずに、永遠の命に生かされて参りましょう。