2024年6月16日 メッセージ要旨
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戸をたたかれる主にこたえて

                                         ヨハネの黙示録 3章14~22節                                                                                                                                       
     
 見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。          
                            
                                    ヨハネの黙示録 3章20節
                                                                 
 当時の世界で最も栄えた商業都市のひとつラオディキアの教会は、裕福な社会の中にあって、主を追い求める熱心さが薄れ、生ぬるい状態に陥っていました。  この町の近隣には、コロサイに冷たい水があり、ヒエラポリスに温泉がありましたが、その温泉がラオディキアに届くころには、生ぬるくなっていました。冷たくもなく、熱くもない、生ぬるいその水が、ラオディキアの信者の状態を象徴していました(15~16節)。

 熱いお茶や、冷たい水を飲むと生き返りますが、生ぬるいお湯は、おいしいとは感じません。生ぬるくては主を喜ばすことできないのです(16節)。

 貧しさや弱さのある人は、切実に主の救いを追い求めますが、「足りないものは何もない」と思っている人は、もうそれ以上何も必要としません。その自己満足が、主を追い求める熱心さを薄くさせ、霊的な貧しさと盲目に陥らすのです(17節)

ラオディキアは金融業が盛んで、銀行の中心地でしたが、主がお与えになる「火で精錬された金」(18節)こそ、本物の富です。それは、試練の火で精錬された純金のような信仰のことです(ペテロの手紙第一1章7節)

 ラオディキア特産の黒い羊毛の毛織物とは対照的な「白い衣」(18節)こそ、主がお与えになる真に栄誉ある服です。それは聖さとキリストに対する花嫁の愛を表しています(7章14節. 19章8節)

ラオディキアには世界中に輸出されていた目薬がありましたが、「神を知るための知恵と啓示の御霊」こそ、真の目薬であり、心の目がはっきりと見えるようになるのです(18節. エペソ人への手紙1章17~18節)

主が叱ったり懲らしめたりなさるのは、熱くもなく、冷たくもなく、生ぬるいたましいを熱心にならせ、豊かな霊的祝福にあずからせるためです(19節)

「自分は富んでいる、足りないものは何もない」と言って、主を必要としないでいることは、主を戸の外に締め出しているのと同じです。そのように自己満足していながら、実は貧しいものであることを知らない私たちのたましいを目覚めさせるため、主は戸をたたかれるのです。そのことに気づいて戸を開く人の心には、主が入って来られ、食事をともにするような親しい交わりによって豊かな霊的祝福にあずかり、生ぬるかったたましいは霊に燃えて熱心になります(20節)

しかし、主は戸をたたかれるとき、私たちにとって不都合なことを要求されるのです。その要求に応えるには、悔い改めて心を新たにすることが必要です(19節)

主は私たちを新たな祝福にあずからせ、霊に燃えた熱い人とならせるために、戸をたたかれます。その御声に聞き従って戸を開け、主を心の中心にお迎えしましょう。