2024年5月5日 メッセージ要旨
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                       神の栄光を現わす器

                                         ヨハネの福音書 5章30~47節                                                                                                                                       
    
   わたしの名で呼ばれるすべての者は、わたしの栄光のために、わたしがこれを創造した         
                             イザヤ書 43章7節
(抜粋)                                                                 

 主を引き立たせるのが、御名を運ぶ器であるキリスト者の本来のあり方です(使徒の働き9章15節)。自分を打ち出していては、器自体が目立ってしまい、うちにおられる主を引き立たせることはできません。

 人からの栄誉を求め、自己顕示に夢中なユダヤの指導者たちは、神からの栄誉には無関心で(44節)、彼らのうちに神への愛はありませんでした(42節)

 一方、イエス様は人からの栄誉はお受けにならず(41節)、ご自分を打ち出すことはなさいません。むしろ、ご自分の意志ではく、父なる神のみこころを求めておられました(30節)。そこに神のみわざが起こるのです。

 ご自分について証言しなくても、イエス様には父なる神の証言がありました(32節)。イエス様が成し遂げられたわざが、父なる神から遣わされたことを証ししていたのです(36節)。ことさらに自己顕示しなくても、神を信じているなら、神ご自身が私たちについて証ししてくださるのです。

 イエス様は人からの証しを必要としませんが、バプテスマのヨハネの証言が人々の救いに役立つことを願って、そのことについて述べられます(33~34節)。バプテスマのヨハネの出現で、人々はしばらくの間イスラエルの回復を期待して喜びましたが(35節)、彼がイスラエル民族の特権意識を打ち砕き、厳格な生活をするよう求めると(ルカの福音書3章8節)、人々は彼から離れて行ったのです。

 旧約聖書にはメシア預言が、イエス様について言及されている箇所がちりばめられています(39節)。モーセの律法の中にも、イエス様についての預言があります(46節. 申命記18章18節)

 バプテスマのヨハネの証言があり、父なる神の証言であるイエス様のわざがあり、聖書の証言があるにもかかわらず、当時のユダヤの指導者たちは、いのちを得るためにイエス様のもとに行こうとはしませんでした(40節)。なぜなら、彼らがイエス様のことをねたんでいたからです(マタイの福音書27章18節)。そのねたみの根底には、彼ら自身の栄誉を追い求める根があったのです。

 人は本来、神のいのちの息である、神ご自身の霊を宿す器として造られています。聖霊に満たされることで人は生きた存在となるのです(創世記2章7節)

 お皿やお椀などの器が、盛り付けられる料理を引き立てるように、聖霊を宿す器である私たちは、神の栄光を現すために存在しているのです(イザヤ書43章7節)

 器自体が目立っていては、神の栄光は現されません。主の御名を人々の前に運ぶ器として、神の愛を抱いていて、主の栄光が現されることを追い求めてまいりましょう。