2024年4月7日 メッセージ要旨
メッセージ      Home
                                                    

                       かすかな細い御声

                                         列王記第一 19章1~14節                                                                                                                                       
    
 主の前で激しい大風が山々を裂き、岩々を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こったが、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火があったが、火の中にも主はおられなかった。しかし火の後に、かすかな細い声があった。

                   
      列王記第一 19章11~12節(抜粋)                                                                 

 バアルの預言者450人とたった一人で対決した勇敢な預言者エリヤが(18)、イゼベルの迫害から逃れるため立ち去ります。エリヤも他の人々にまさっていない(4節)、弱さを持つただの人にすぎません。勇敢に戦った信仰の勇気は、彼自身のものではなく、神の賜物です。困難に落ち込み、恐れ、弱さを知らされるのは、自分の力ではなく、神の力に支えられていることを気づかせる、神の取り扱いなのです。

 エリヤは御使いによって与えられた食物と水に養われ、力を得ます。神は霊的にも、肉体的にも、必要な糧を与えて、私たちを養ってくださるのです(5~8節)

 エリヤは、「私は万軍の神、主に熱心に仕えました」と言っています(10節.14節)。しかし、人の熱心は、性急にことを進めようとし、不寛容になり、うまくいかないと怒ります。そのような人の熱心は砕かれて、神の熱心に変えられなくてはならないのです。

 人は偉大なことに目を向けがちです。リバイバルが起き、多くの人が押し寄せる、そのようなみわざには、確かに神の働きがあります。神が通り過ぎると、激しい風が山々を裂き、岩々を砕き、地は揺らぎ、火があるのです。しかし、風の中にも、地震の中にも、火の中にも、主はおられなかったとあります。神はかすかな細い声の中におられるのです(11~12節)。神は私たちが落胆する時も、著しいみわざを目にすることができない時も、どのような時も、かすかな細い御声をかけて、私たちとともにおられるのです。

 かすかな細い御声ですから、喧騒に満ちた世の雑音に心を騒がせていては聞き取ることができません。著しく目を見張ることに関心が向いていても、聞き取ることができません。主の前に心を静めることで、御声を聞くことができるのです。

 エリヤは自分一人が主のために残されたと思っていましたが(10節.14節)、御声を聞いたことによって、イスラエルの中に主の民が七千人も残されていることを知ります(18節)。私たちも主の御声を聞くことによって、荒野のような世にあって恵みの中に置かれていることに目が開かれるのです。

 神はかすかな細い御声の中におられます。私たちも様々なところを通されますが、どのような時も主の前に静まり、その細き御声を聞き、恵みに満たされて歩んでまいりましょう。