2024年4月21日 メッセージ要旨
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                       神を待ち望め

                                         詩篇 31篇1~24節                                                                                                                                       
    
 あなたは、わたしが主であることを知る。わたしを待ち望む者は恥を見ることがない。

                   
          イザヤ書 49章23節(抜粋)                                                                 

 「ダビデの賛歌」と表題にあるこの詩篇の背景に、サウル王にいのちを狙われ追われるダビデの苦悩があったことがうかがえます(13節.15節)

 神に身を避けるダビデを(1節)、神はサウルの手から守られます。サウルがマオンの荒野でダビデを追った時、両者の間を仕切る岩山によって、ダビデはサウルから逃れました(サムエル記第一23章24~28節)。この「仕切りの岩山」が、両者の間に立ちはだかる神の守りの御手を象徴しています。神は仕切りの岩、強い砦となって、ダビデをサウルの手から守られたのです(2~3節)。神はダビデをサウルの手に引き渡されませんでした(8節.サムエル記第一23章14節)

 サウル王から逃れ、荒野の要害や山地や洞穴などをさまよう生活に、ダビデは心身ともに苦悶で衰え果ててしまいます(9)。王に追われる身の彼は、そしられ、避けられ(11節)、死人のように人から忘れられ、壊れた器のように無用の者と見なされてしまいます(12節)

 しかし、そのような中にあって、ダビデは神に信頼します(14節)。人に見放され、顔をそむけられる中、神が御顔を向けてくださるというのは、大きな慰めであり、祝福です(16節)

 絶望的に思える状況にある時、「神の目の前から断たれたのだ」と思いがちですが、神は私たちの願いを聞かれ(22節)、私たちの苦悩をご存じなのです(7節)

 迫り来る危険の中にあって、ダビデは、「私の霊をあなたの御手にゆだねます」と言っています(5節)。イエス様も十字架の上で、「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます」と叫ばれ、息を引き取られました(ルカの福音書23章46節)。御父の御手にご自分をゆだねられたイエス様は、よみがえられ、信じる人々に罪赦されて神と和解する救いの道を開くことができました。神の御手に自分をゆだねるなら、十字架と思える歩みの向こうに復活があるのです。

 神に身を避ける者のために蓄えられ、備えられている神のいつくしみは、具体的に目に見える形で人々の前に現されます(19節)

 しかし、それには神の時があるのです(15節)。私たちが花開き、実を結ぶ、神のいつくしみが現されるその時は、御手の中に支配されているのです。神は私たちの益となり、ご自身の栄光となる最善の時に、いつくしみのわざを現してくださいます。「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」(伝道の書3章11節)のです。

そのいつくしみのみわざを目にするまで、堅く信仰に立って、神を待ち望むことが私たちに求められているのです(24節)

 神を待ち望む者は恥を見ることがないと(イザヤ書49章23節)、期待はずれに、無駄に終わらないと約束されています。神は御手の中にある最善の時に、いつくしみのわざを現してくださいます。そのことを信じて、神を待ち望んでまいりましょう。