2024年11月24日 メッセージ要旨
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                                              メッセージ      丸山豊牧師        
教会の存在意義

                         へブル人への手紙 10章25節
 
                                                                                                                                      
     
 ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。

                                     へブル人への手紙10章19~25節
                            
                               
1.神に近づこう(22節)
 キリスト者は、イエスの血によって(19節)、新しい生ける道を開かれたイエスの肉体という垂れ幕を通して(20節)、神の家を治める偉大な祭司によって(21節)、いつでもどこでも、どんな時でも、神に近づくことができますが、昨今ほど、神に近づくことが難しい時代はないのではないでしょうか。
 よほど意識して神に近づこうとしない限り、職場や家庭や奉仕活動で忙しく働き、せめて日曜日くらいは家でのんびり過ごそうと、肉に従う者(ローマ人への手紙8章6節)として一生を過ごしかねません。
 キリスト者が世の働きに忙殺されて、升の下に灯を置いたままであったなら、誰が世を照らし、地の塩として、世の腐敗を食い止めるのでしょう。神は私たちに期待しておられます。
 心にイエスの血が振りかけられ、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、まったき信仰をもって真心から神に近づいて(ローマ人への手紙12章1節)、みことばを悟り、100倍・60倍・30倍の実を結びましょう。(マタイの福音書13章23節)

2.集まりをやめたりしない(25節)
 ギリシャ語のエクレシア(教会)は、「呼び集められた者たち」の意味で、神の御前に召し出された私たちが共に集い、神のことばを聞き、信仰を告白し合い、愛と善行とに励み、互いに励まし合うのが教会です(詩篇133篇1節)。
 当時の集会から身を引いてしまった人たちもいたようですが、それでは教会本来の意義は失われてしまいます。
 しかし、集まるからには、左の頬を打たれて右の頬も向けなければならないことや、憶測され誤解されて、集まり辛くなってしまうことや、敵対されても、愛し続けなければならない事もあるでしょう。しかし、世の集会との決定的な違いは、教会は、罪赦された罪人同士の集りであり、父、御子、みたまの神の臨在するところです。
 主の血によって罪赦され新生した私たちは、いつまでも乳飲み子のままでなく、罪赦された者同士の交わりを通して、自分を知り、批判を自分に向けて適応し、地の塩、世の光の役目を果すまで成長する。教会はそのための、「訓練の場」でもあるのです。
 一人でも集りをやめてしまいますと、ただでさえ1%にも満たない日本の教会は、「キリストのからだ」の一部分を失って、痛み苦しむことになります(コリント人への手紙第一12章27節)。私たちは、キリストのからだの一部分の働きが、いかに大事であるかを、自分を含めて、もっと深く知る必要があります。
 さいわい、「二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。」(マタイの福音書18章20節)とあります。
 今日の篭原キリスト教会があるのも、昭和5年に受洗なさった川島巳之吉さんのご夫妻が集まることをやめたりしなかったことによるのですから、先達の信仰に見習って、父・子・御霊の神の臨在の前に、信仰を告白し合い、愛と善行とに励み、互いに励まし合って、「かの日が近づいているのを見て、ますます、励もうではありませんか。」                                      
                                          (丸山豊牧師)