2024年10月27日 メッセージ要旨 | ||||
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丸山豊牧師 主の愛に生きる私たち マタイの福音書 22章34~40節 |
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わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、 これがわたしの戒めです。 ヨハネの福音書 15章12節 |
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「律法の中でどの戒めが一番重要ですか」との律法の専門家の質問に対して主イエスは、「主を愛し(申命記6章:5節)、自分自身のように隣人を愛しなさい(レビ記゙19章18節)という二つの戒めに、律法と預言者(旧約聖書)の全体がかかっている。」と言われ、主イエスご自身も、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです(ヨハネの福音書15章12節)。」と弟子たちにお命じになっておられます。 主なる神は、旧新約聖書全巻を通して、私たちが神を愛し、互いに愛し合うことを、強く望んでおられます。 しかしこの世はどうでしょう。神を愛するどころか、神の存在すら認めようとせず、互いに愛し合うどころか、争いが絶えたことがありません。 神の御子イエスキリストは、世の罪を取り除く神の子羊(ヨハネの福音書1章29節)として十字架にかかり、敵する人々をもとりなし(ルカの福音書23章33~34節)、神に見捨てられた極限のお苦しみの中で、みずからをいけにえとして神にささげて(マタイの福音書27章46節)、律法の要求する「無償の愛」を、まっとうしてくださいました(ヨハネの手紙第一4章10節)。 もし、主イエスが、神に見捨てられたまま、よみがえらなかったとしたら、真理といのちに通じる道(ヨハネの福音書14章6節)は閉ざされ、人は神のみ前に出られなくなってしまったでしょう(コリント人への手紙第一15章17節)。 一方、主の弟子の筆頭であるペテロは、「あなたのためならいのちも捨てます(ヨハネの福音書13章37節)」と豪語して、捕らえられた主イエスの後に従って行きましたが、「あなたもイエスの仲間だ。」と言われた途端に、三度も主を否んでしまいました(ヨハネの福音書18章15~27節)。他の弟子たちも同様で、彼らの愛や信念や熱心や努力によっては、心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして主を愛し抜くことなど、できなかったのです。 しかし主イエスは、三日後に甦って、弟子たちの前に現れ、「平安あれ」と語りかけ、一晩中一匹も魚がとれなかった漁に大漁を与え、ご自分で用意なさった食事に彼らを招いて、復活の主と共にある恵みに与からせ、イエスを愛する資格すら失ったペテロに対しては、「わたしを愛していますか」と三度も問うてくださり、彼が三度とも、「はい、主よ。私があなたを愛していることは、あなたがご存じです。」と、その愛に応えますと、主は、「わたしの羊を飼いなさい」と言って、主の愛する隣人たちを、彼の手に委ねてくださいました。(ヨハネの福音書21章1~19節) 主は、愛のない私たちに決して絶望なさいません。世の終わりまでいつもともにいて(マタイの福音書28章20節)、私たちを愛し続けてくださいます。 自らの愛や信念や熱心や努力によってではなく、主の愛と、赦しと、新生の恵みに生かされたペテロ(岩)は、使徒として、教会の指導者としての務めを果たし続けることができ、主イエスと同じ姿ではおこがましいとばかりに、逆さばりつけにされて、ローマで殉教したと伝えられております(シェンキェヴィチ著『クォ・ヴァディス』)。 私たちが主に信頼し、主の愛に生かされ、主の愛を宣べ伝える時に、主がお遣わしくださった聖霊はあなたと共にいて、私たちを執り成してくださり(ローマ人への手紙8章26~34節)、「主を愛し、隣人を愛しなさい。」と願われる神の愛(黄金律)はまっとうされるのです。 主の愛に生かされる者の幸いを覚えて、大胆に「主の愛」を証して参りましょう。 (丸山豊牧師) |
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