2024年1月28日 メッセージ要旨
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                                                    メッセージ    丸山豊牧師

                    新しいぶどう酒は新しい皮袋に

                                          マタイの福音書 9章14~17節                                                                                                                                       
    
 ですから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えても、内なる人は日々新たにされています。
                   
       コリント人への手紙第二 4章16節                                                                 
 主イエスは断食(苦難)の可否についての譬えで、「わたしの弟子たちは、神の国の到来による『既にと未だ』という時系列のはざまに置かれて、迫害に耐えつつも、福音宣教のわざに励むであろう。」と示唆なさいました。

 私たちキリスト者も、同じ時系列のはざまに在って、からだの贖われることを待ち望みつつ、信仰に励んでおりますが、「今の時の苦難は、やがて私たちに啓示される栄光に比べれば、取るに足らないと私は考えます」(ローマ人への手紙8章18節)とパウロは述べております。

 新しいぶどう酒を古い皮袋に入れたりすれば、皮袋は裂け、ぶどう酒が流れ出て、皮袋もだめになるように、そんな非常識なことをする人はおりませんが、神の国の到来によって、そのような非常識なことが起って、ユダヤ教の律法主義や権威主義・神殿の聖所と至聖所を隔てる幕・エルサレム神殿・ユダヤ国家が引き裂かれ、同時に主イエスのからだが引き裂かれて人の罪の贖いが成就し、誰でも大胆に神に近づくことができる救いの道が切り開かれて、全世界に及びました。

 パリサイ人でユダヤ議会の議員ニコデモが、律法主義という古い皮袋に、イエスの教え(新しいぶどう酒)を取り入れようと主の許に来た時、主は、「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。」と語られました。「水と御霊から生まれる」とは、キリストの死と復活の恵みに与ることで、父・子・聖霊の名によって洗礼を受け、古い自分に死んで、御霊の助けによって内なる人が新生し、キリストのいのちに生きるようになることです。

 外なる人は、如何に努力し磨いても、所詮、肉は肉のままで、日毎に衰えて、やがては死んで灰になってしまいますが、キリストの死と復活による救いの御業を信じ、その信仰によって義と認められた内なる人は、神の国の入国パスポートがありますので、突然の災害に見舞われても、主の日には、永遠のいのちの恵みに与かることが出来ます。

 ではこの世における内なる人の存在意義はどこにあるのでしょう。

 エペソ人への手紙4章12~13節には、「聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、完全なおとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです」とあって、既に救われている私たちは、未だ救われていない人々を救いに導くために、日々みことばに養われて、霊の大人へと成長しなければなりません。

 私たちを信仰告白に導き、主に向って「アバ、父よ」と親しく呼ばせ、私たちが神の子であることを証しして下さり、私たちがどう祈ったらよいか分らなくても、切なるうめきをもってとりなして下さる。これらはみな御霊の御助けによるものです。このような御霊の御助けを拒んでしまうことは、自ら自分を永遠の滅びに送ることを意味しますので、私たちがそのような悪魔の試みに負けてしまわないよう、「日毎の糧(みことば)を今日も与えたまえ!」と祈りなさいと、主の祈りで教えて下さいました。見える現状にではなく、見えない神の約束に目を注いで、信仰生活に励んで参りましょう。  (丸山豊牧師)