2023年8月6日 メッセージ要旨
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                       人を満たす聖霊の泉

                                          ヨハネの福音書 4章13~15節                                                                                                                                       
    
    しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。
    わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。         
                                                                                                          ヨハネの福音書 4章14節
 
 イエス様は人の内で泉となって湧き出る霊的な水、すなわち聖霊について語られますが(14節)、サマリアの女はその意味が理解できず、井戸まで汲みに来なくても済む水だと思ってしまいます(15節)

普通なら、暑さを避けて朝か夕方に水汲みをするところを、彼女は真昼(正午頃)に労力のいる水汲みをしていました。彼女には、夫が五人いたが、今一緒にいるのは夫ではないという事情があったので(18節)、人目を忍ぶため、多くの人が集まる時間を避けて水汲みをしていたのです。

太陽が照りつける真昼の水汲みは大変であったでしょうが、水汲みを怠れば、水の乏しい当時のパレスチナではいのちに関わるので、どうしてもしなければならない労働だったのです。彼女が水汲みの労苦のない水を求めるのも、無理からぬことです。

私たちは目に見える日常生活の様々なこと、体のことや、仕事や家庭のことなどに関心が向かい、そのことについて祈ります。それはまちがったことではないですし、神もその祈りに答えて、私たちの生活の様々な必要を満たしてくださいます。

しかし、神がお与えになる真の賜物は、神ご自身の御霊なのです。この世にあるものはみな、どれだけ与えられても満ち足りることがなく、いずれまた渇いてしまいます(13節)。人の内で泉となり湧き出る聖霊が、人を満ち足らせるのです。神なしにはすべてがむなしく、神の臨在が私たちを幸せにします。

あがめるとは、大きくすることです。「御名をあがめます」と言っていながら、他のものが大きく映っていて、神を片隅に小さく映している。そんなことはないでしょうか。神を画面いっぱいに仰ぎ見て、神を第一に求めてまいりましょう。そうすれば、聖霊に満たされる祝福に加えて、私たちの必要も与えられるのです(マタイの福音書6章33節)

サマリアの女も、イエス様と出会ったことで、真昼の水汲みから解放されたのではないでしょうか。多くのサマリア人が彼女の証言によってイエス様を信じたのですから(28~30節. 39~42節)、人目を忍ぶ必要もなくなったに違いありません。

イエス様は、私たちが罪赦されるために、私たちの罪を負って十字架に死なれ、よみがえられて、神との親しい交わりをもたらす御霊を私たちに与えてくださいました。この恵みを無駄に受けることのないようにしましょう。

私たちの内で御霊が泉となって湧き出ることで、私たちは幸せに満ちあふれます。そのことを覚えて、御霊に満たされることを追い求めてまいりましょう。