2023年8月27日 メッセージ要旨 | ||||
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メッセージ 丸山豊牧師 行いによって全うされる信仰 ヤコブの手紙 2章21~23節 |
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あなたが見ているとおり、信仰がその行いとともに働き、信仰は行いによって完成されました。 「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。 ヤコブの手紙 2章22~23節 |
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ヤコブは、アブラハムの信仰が行ないによって全うされたことを例に挙げて、行ないのない信仰がいかにむなしく、その人を救えないかを論証しようとしますが、一方のパウロは、「人は律法を行うことによってではなく、ただキリスト・イエスを信じることによって義と認められる」とガラテヤ2章16節で述べているため、「人が救われるのは、イエスを信じる信仰によってか?信仰に加えて行いが必要か?」という論争にまで発展してしまいました。
しかし、人が救われるのは、恵みのみ、信仰のみで、パウロが「信仰のみ」とするのは、創世記15章6節からの引用で、ヤコブが、「行いによって義とされた」とするのは、この30年後のアブラハムがイサクを全焼のいけにえとして献げる創世記22章からの引用です。 「行いによって全うされる信仰」については、パウロもローマ人への手紙12章1節で、神の恵みによって義とされた者は、そのからだを献げて神を礼拝する…これに比べ得る「行い」は、他にないことを述べておりますし、貧しいイエスの両親は、幼子イエスを主に献げるためにエルサレムに行って、山鳩一つがいか、家鳩のひな二羽を、全焼のいけにえとして献げ(ルカの福音書2章24節)、イエス・キリストは「ご自身」を全焼のいけにえとして十字架に献げて、主を信じる信仰によって義とする道を開いて下さいました。 ところで「行いによる救い」を全面に主張する15世紀のローマ教会は、聖ペテロ寺院の改築資金調達のために、「煉獄での苦しみを減らして貰うには、教会から免償状を買い、そのお金がチャリンと献金箱に落ちる時、その者のあらゆる罪は赦され、煉獄で苦しむ親の罪も赦されて天国へと移される」と説いて免償状を発行しました。この教えが、魂を永遠の滅びに陥れる危険なものであるとしたマルチン・ルターは、ローマ教会に95ヵ条の提題を突きつけ、さらにドイツ語訳の新約聖書を出版しますが、その際、ヤコブの手紙を「藁の手紙」と評しました。行ないによる義を全面に主張して、聖書に根拠のない教えを説くローマ教会と信仰の戦いをする彼にとって、ヤコブの手紙より、パウロの手紙等を優先的に読んで欲しいと願うのも無理もなかったことを思います。 彼の抗議(プロテスタリー)は、またたくまに各地に拡散され、ルターの著作を読んで共感した修道女カタリーナは、12名の仲間と共に修道院を脱走し、ルターと結婚して3男3女を儲け、さらに、ルターが宗教改革の諸問題で苦しみ落ち込んでいた際には、わざわざ喪服姿に着替えて、夫の死んだ信仰を見事に甦らせており、彼女の信仰もまた、これらの「行い」によって全うされたのです。 義と認められたアブラハムの信仰が、我が身同然のイサクをささげることで全うされ、ルターの「恵みのみ」の信仰は、ローマ教会の内部告発をするという命を賭した行いによって全うされ、イエス・キリストを信じる信仰によって義とされた私たちの信仰もまた、心身共に献げる礼拝という最上級の行いによって、全うされ続けて行くことを思います。 (丸山豊牧師) |
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