2023年8月20日 メッセージ要旨
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                       安息を与える主の臨在

                                          出エジブト記 33章12~16節                                                                                                                                       
     主は言われた。 「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる。 」
                                                          
                                      出エジブト記 33章14節
 
 神はモーセにイスラエルの民を約束の地カナンへと連れ上るよう仰せになりますが(1節)、ご自分は民とともに行くことを拒まれます(3節)。なぜなら、イスラエルの民が金の子牛の像をアロンに造らせて、偶像礼拝に陥ったからです(32)

乳と蜜の流れるカナンの地も(3節)、神の臨在なしには、決して望ましい所とはなりません(15節)。神がともにおられないなら、すべてはむなしいのです。神の臨在が私たちに幸いを与え、神とともに歩むことで私たちの歩みは確かにされるのです(箴言16章9節)

神はモーセに、「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる」と仰せになります(14節)。この「休ませる」というのは、約束の地カナンに入って与えられる安息のことであると、大方の本に記されていますが、モーセはピスガの頂からカナンの地を見るだけで、そこに入ることなく死にました(34)。カナンの地が究極的な安息ではなかったのです(へブ4:8)

究極的な安息は永遠の御国に用意されています。御国に安息があるのは、そこに神がおられるからです(21:3)。地上人生においても、神がともにおられる歩みには安息があるのです。世にあってはさまざまな苦難がありますが、神がともにおられるなら、苦難の中にあって安息が、平安が与えられるのです。主のもとに安息が、安らぎがあるのです(マタイの福音書11章28節)

ヨセフは兄弟たちによって奴隷としてエジプトに売られ、いわれのないことで投獄されてしまいますが、主はヨセフとともにおられました(創世記39章2節.3節.21節.23節)。ヨセフが失意や苦々しさに支配されることなく生き抜くことができたのは、主の臨在が試練の中にあるヨセフに平安を与えていたからです。

神がともにおられるということが、世人と異なる神の民の特性であり、みこころにかなった民であることのしるしです(16節)。私たちは、神の臨在を仰いで、神とともに歩む、神との親しい関係が築けているでしょうか。もし神との関係がぎくしゃくしているなら、悔い改めて神に立ち返り、神との親しい関係を築き直しましょう。

神の御顔は神の臨在を意味しています(14)。モーセが神の語りかけを聞くとき、御顔を、神の臨在を仰いでいたように(11節)、私たちも聖書をとおして神の語りかけを聞くことで、神の親しい臨在を仰ぐことになるのです。

キリストは私たちに神との親しい関係を与えてくださいました。すなわち、私たちが罪赦され、神と和解するために、キリストは私たちの罪を負って十字架に死なれ、よみがえられたのです。この恵みを無駄に受けることのないように、神の臨在を絶えず仰いで、神とともに歩んでまいりましょう。

神がともにおられるなら、日々の労苦の歩みの中に安息が、平安が与えられます。主の臨在を絶えず仰いで、平安のうちに歩んでまいりましょう。