2023年7月30日 メッセージ要旨
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                       幸いを与える神の臨在

                                          詩篇 127篇 1~2節、128篇1~2節                                                                                                                                       
    
     主が家を建てるのでなければ建てる者の働きはむなしい。
     主が町を守るのでなければ守る者の見張りはむなしい。         
                                                                                                                      詩篇 127篇1節
 
 127篇には「むなしさ」が、128篇には「幸い」が語られています。両者を分けているのは神の存在です。神なしにはどのような働きも営みもむなしく(127:1)、反対に、神とともに歩む人には幸いがあります(128篇1節)

 朝早くから夜遅くまで働いて糧を得ても、神がともにおられないなら、その生活はむなしいのに対して(127篇2節)、神がともにおられるなら、自分の手で労した実りに、幸せを味わうことができます(128篇2節)。そこに神の祝福が及んでいるからです。勤労の実に幸せを覚えることは神からの賜物であり、神の恵みなのです。神に信頼する者は平安のうちに眠ることができるのです(127篇2節)

 127篇の表題に、「ソロモンによる」とありますが、残念ながら、この詩篇の教訓はソロモンの人生に最後まで生かされませんでした。ソロモンは晩年、異国人の妻たちによって異教の神々の方へと向かい、心が主から離れてしまいます。その結果、ソロモンの死後、イスラエルは北と南に引き裂かれてしまいます(列王記第一11章4節.9章11節)

神がともにおられなければすべてはむなしく、意味のないものとなります。神がともにおられるので幸いが与えられるのです。日本的に言うと、神様のおかげなのです。「お陰」と漢字で書くときには、その音のとおり、陰、日なたの「陰」の字が使われます。「お陰」と辞書で引くと、「バックアップ」という意味がありました。神とともに生きる人の歩みには、その背後で支える、目に見えない神の祝福の御手が働いているのです。

「主は、人が自分の友と語るように、顔と顔を合わせてモーセと語られた」(出エジブト記33章11節)とありますが、モーセに神の御顔が見えていたわけではありません。「あなたはわたしの顔を見ることはできない」と神はモーセに言っておられます(出エジブト記33章20節)。ソロモンは晩年、目に見えない神から心が離れてしまいましたが、モーセは、目に見えない神を見ているようにして(へブル人への手紙11章27節)、神とともに歩む幸いな道を全うしたのです。

目に見えない神の祝福の御手によって幸いが与えられていることを、私たちは忘れてはいけないのです。主がともにおられなければすべてはむなしく、ともにおられる主の臨在が、私たちを幸せにします。そのことを覚えて、主を恐れ、主の道を歩んでまいりましょう。