2023年5月28日 メッセージ要旨 | ||||
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破れ口に立つ者 エゼキエル書 22章30~31節 |
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この地を滅ぼすことがないように、わたしは、この地のために、わたしの前で石垣を築き、破れ口に立つ者を彼らの間に探し求めたが、見つからなかった。 エゼキエル書 22章30節 |
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本来、神の民を通して地を治めさせようと定められた神は、その御心実現のために破れ口に立って、「この地を滅ぼさないでください」と主の前にとりなす者を尋ねました。しかし、人の罪を神のみ前にとりなせる義人など一人も居なかったために(ローマ人への手紙3章10~12節)、北イスラエルも南ユダも、主の激しい憤りによって滅ぼされてしまいました。 そこで、罪のない神のひとり子イエスが、人の罪の身代わりとなって十字架にかかり、神の怒りをその身に受け、その死と復活によって、罪と死とに勝利して、イエスを主と信じる者を義として下さいました。 ですから、アブラハムが甥のロトの家族が住むソドムの町が滅ぼされないようにと、「正しい者が50人いたら、いや、40人・30人いたら滅ぼさないでください」と、10人まで食い下がってとりなしたように、私たちも人のためにとりなして祈ることができるのです。 罪との戦いの最前線である教会は、地球規模の破れ口に立たされており、「この地を滅ぼさないで下さい。」ととりなし祈る使命がありますが、高齢化が進んで破れ口に立つ信仰者が年々減っております。 主イエスは、「二人か三人がわたしの名において集っている所には、わたしもその中にいる(マタイの福音書18章20節)」とお約束くださいましたので、主が共にいて下さる教会は、たとえ二人か三人であっても難攻不落です。 異国のモアブで夫と二人の息子を失い、年老いて故郷ベツレヘムに帰ったナオミですが、彼女は厳しい現実の中にあっても、「全能者が私を大きな苦しみに合わせ…素手で帰し…卑しくし…辛い目に合わせられた…」と、信仰を捨ててはおらず、その信仰は息子の嫁ルツに継承されておりました。 そして、「はからずも」神と姑とに仕えて落穂を拾うルツの姿が、ナオミの夫エリメレクの一族に属する有力な親戚ボアズの目にとまって、二人の間にオベデが生まれ、エッサイ、ダビデ、ソロモン、やがてヨセフとマリアへと信仰が継承されて、人の子としてのイエス・キリストが与えられました。 また、ヨシュアとイスラエルはアマレクと戦い、モーセはとりなして祈り、アロンとフルはその祈りを支えて、「モーセが手を高くしているときは、イスラエルが優勢になり、手を下ろすとアマレクが優勢になった。(出エジプト記17章11~12節)」とあります。 教会の現状がいかにあろうとも、私たちが礼拝をささげ、罪の破れ口に立ってとりなし祈っていくとき、御霊ご自身がことばにならないうめきをもってとりなして下さり(ローマ人への手紙8章26節)、人知を超えた新しい事を、主は成してくださいます。(エレミヤ書33章3節) (丸山豊牧師) |
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