2023年3月26日 メッセージ要旨
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                                                         メッセージ  丸山豊牧師     

                      仰ぎ見れば生きる

                                          民数記  21章 4~9節                                                                                                                                       
    
 モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上に付けた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぎ見ると生きた。
                  
               
民数記 1章9節
 
 イスラエルの民は、ホル山からエドムの地を迂回して葦の海の道を通って荒野を行くうちに、「われわれはこのみじめな食べ物に飽き飽きしている」と言って主とモーセに逆い、主が送られた毒へびにかまれて多くの者が死にました。

 私たちの信仰生活も、聖書のみことばを、私たちの魂を満ち足らせるものとして日々に感謝し味わっている内はいいのですが、「このみじめな食べ物に飽き飽きした。」とつぶやいてしまったら、私たちが救われる手立ては、他にあるのでしょうか?

 モーセが民をとりなして神に祈りますと、神は、一人一人から蛇の毒を抜き去って癒すのではなく「モーセが作った青銅の蛇を旗竿に上げ、それを仰ぎ見る者は生きる」という救済方法を示して、「蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぎ見ると生き」ました。

 実はイスラエルの民が神に逆らったのはこれが初めてではなく、旧約聖書全体を通して神に逆らい続けますが、神は彼らをお見捨にならず、ついに新約の時代に至って、「モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければなりません。」(ヨハネの福音書3章14~16節)でした。

 頭には茨の冠が被せられ、手と両足は十字架に釘づけにされた主イエスのからだは、ゴルゴダの丘に高々と掲げられました。

 イエスとともに右と左に十字架にかけられていた犯罪人の一人が、「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」と言って、十字架のイエスを救い主と信じ仰ぎ見ますと、イエスは「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」と宣言してくださいました。

 この「仰ぎ見る」と訳されたヘブル語の「ラーアー」は、拝見する・見極める・見定める・見つめる・認める・目をとめる・考える・悟る・楽しむ・選ぶ・顧みる・思う等、たくさんの意味があって、すべての人がイエス・キリストを生きるための最大の関心事としなければならないことが分かります。

 人は聖くなって救われるのでも、死を免れるのでもありません。生まれながらの罪人が、一人として滅びることなく永遠のいのちを持つために、神の御子イエスは、人の罪の身代わりとして神の呪いをその身に受けて十字架にかかって死なれ、三日後に復活なさって、パラダイスの門戸を開いてくださったのです。  

 このイエス・キリストの贖いの血によって、「主の十字架は、私が犯した罪のためでした」とイエスを救い主と信じ仰ぐ者は誰でも、主の御再臨の時を待つまでもなく、死の直後から永遠のいのちの慰めに入ることができるのです。(ヨハネの黙示録14章13節)

 既に救われている私たちは、この単純明快なイエス・キリストの福音を滅び行く人々に宣べ伝えて参りましょう。(丸山豊牧師)