2023年2月19日 メッセージ要旨
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                    いつも主にあって喜びなさい

                                            ピリピ人への手紙 1章19節~30節                                                                                                                                       
   いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。                                                                                                                                   ピリピ人への手紙 4章4節
 
 著者パウロが獄中の大きな試練の中で書いたにもかかわらず(13節)、この手紙には、いたるところに「喜び」ということばが出てまいります(4節.18節)。いけにえに注がれるぶどう酒のように自分の血が注がれる、つまり、殉教しても、パウロは喜ぶと言っています(2章17節)

パウロはキリストが宣べ伝えられることを喜びとし(18節)、生きるにしても死ぬにしても、彼の身によってキリストがあがめられることを願っています(20節)。キリストの栄光が現されることが生きる目的であるパウロにとって、「生きることはキリスト」(21節)なのです。そのように、キリストがすべてであり、キリストと一つになって生きた人だからこそ、キリストのゆえに投獄され(13節)、キリストのために苦しんでも(29節)、なお喜びをもって仕える力が与えられたのです。

パウロが殉教によって死ぬとしても、世を去ってキリストとともにいることになるので(23節)、彼は、「死ぬことは益です」(21節)と言うことができます。釈放されるとなれば、ピリピの教会の人々の信仰の前進と喜びのために、パウロは生きながらえることになります(25節)。釈放であろうと殉教であろうと、どのような状況に置かれようとも救いの道を進んでいることに変わりはなく(19節)、神の御手の中で完全に守られているという信頼がパウロにはあったのです。彼が喜びを失わなかった秘訣がここにもあります。

ピリピの教会には、福音とは異なる教えを唱える人々がいて、クリスチャンはすでにキリストとともによみがえらされ、人生のどのような試練からも解放されているので、苦しみとは無関係であると言って惑わしていたのだそうです。パウロはその誤りを正すため、「あなたがたがキリストのために受けた恵みは、・・・キリストのために苦しむことでもあるのです」(29節)と言っています。キリスト者が神に敵対するこの世から迫害されるのは当然であって(テモテの手紙第二3章12節)、むしろ、それはキリスト者にとって救いのしるしなのです(28節. マタイの福音書5章11~12節)

苦しみの中にあるときは、喜びをもって主に仕えることが難しくなり、活力を失いがちです。しかし、パウロは、獄中の苦しみにあっても喜びを失いませんでした。主にあって喜ぶことが、私たちの信仰生活に力を与えるのです(4章4節. ネヘミヤ記8章10節)

重たい足を引きずられるようにして主に仕えるのではなく、いつも、どのような時も、喜びをもって主に仕えてまいりましょう。