2023年10月8日 メッセージ要旨
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                       神の国の宴の招待に応えて

                                          ルカの福音書 14章1~24節                                                                                                                                       
    
  神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう。

                   
          ルカの福音書 14章15節(抜粋)                             
                                    
 パリサイ派の指導者の家で催された安息日の宴会に(1節)、水腫をわずらっている人がいました(2節)。イエス様はご自分を告発しようとうかがう敵対者たちの目の前で、その人を抱いて癒やされます(4節)

 律法学者やパリサイ人は、労働を禁じる安息日の律法を解釈して、安息日の癒やしは、いのちの危険がある場合のみと定めていました。しかし、聖書は安息日の癒やしを禁じていないのです(3節)

 彼らも自分の息子や牛が井戸に落ちた場合には、安息日でもすぐに助けるのですから(5節)、それはエゴイズムでしかありません。

 彼らのエゴイズムは、彼らが上座を選んでいる様子によく表れていました(7節)。そこでイエス様は、結婚の披露宴の席順に関するたとえ話をなさいます(8~10節)

 自分の貧しさを知ってへりくだる人を神は高くし、御国の宴席にあずからせてくださいます。ご自分を低くして人となられ、十字架の死にまで従われたキリストも、よみがえられ、すべてのものの上に高く上げられました。

一方、自分を高くすることは、自分を神の座に置こうとする行為であり、神はそのような高慢な人を退けられるのです(11節)

 イエス様を招いた人も隣人愛が欠けていたようです。友人や親族、金持ちなどを招いて交際し(12節)、貧しい人たち、からだや目の不自由な人たちを排斥していたのでしょう(13節)

 愛は人から報いを受けることを期待しません。神の一方的な恵みを受けた者として、そのご愛に応えてお返しのできない人をもてなす人は、義人の復活のときに、神の国の宴席にあずかってお返しを受けるのです(14節)

 律法学者、パリサイ人の一人が、自分たちこそ神の国で食事をする義人にほかならないと考えて自画自賛すると(15)、イエス様は「盛大な宴会」のたとえ話をなさいます。古代オリエントの宴会には、二度招待する習慣がありました。一度目の招待を受けておきながら、当日用意が整ったことを知らせる二度目の招待を断ることは、大変無礼なことでした(16-17)。ところが、宴会に招かれていた人たちは、みな同じように断り始めます(18-20)

ユダヤ人も旧約聖書の預言をとおして、神の国の盛大な宴会にあずからせるメシアの救いにあらかじめ招かれていましたが、メシアであるイエス様が訪れると、その二度目の招待を断って受け入れなかったのです。

家の主人は怒って、当時の社会で排斥されていた人々を宴会に招きます(21節)。町の外にいる人々も招いているのは(23節)、異邦人も神の国の盛大な宴会にあずかることを示しています。

「招待されていた」というだけでは、神の国の食事の席に着く保証にはなりません。神の恵みの招きに応じるかいなかは、招待された人間の側に責任があるのです(24節)

畑や牛や結婚が宴会への招きを断る口実となったように(18~20節)、世の思い煩いや、富や、快楽が、神の国の招きと自分との間に介入する障害となりうるのです(8章14節)

教会にはなかなか人が集まらず、世人は目に見える世の楽しみの方へ向かっていきますが、教会の集いの中には、礼拝の中には、目に見えない神の国の祝宴が開かれています。神を礼拝するために教会に集い、御国の民として謙遜と愛に生きることで、御国の宴の招きに応じることになるのです。

神の国の食事に招かれている幸いを覚えて、その招きに応じて御国の民として生き、その宴にあずかることができるよう歩んでまいりましょう。