2023年10月29日 メッセージ要旨
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                    神に信頼することを学ぶためのマナ

                                                  出エジプト記 16章1~36節                                                                                                                                       
    
 主はモーセに言われた。「見よ、わたしはあなたがたのために天からパンを降らせる。民は外に出て行って、毎日、その日の分を集めなければならない。これは、彼らがわたしのおしえに従って歩むかどうかを試みるためである。
                   
                出エジプト記 16章4節                  
                                    
 神はイスラエルの民をオアシスであるエリム(15章27節)から、シンの荒野へと導かれます(1節)。それは、水と食料の乏しい荒野で神に拠り頼むことを民に学ばせるためでした。神が良い境遇に留まらせずに、試練をお与えになるのは、神に拠り頼ませるためなのです。

 エジプトを出てから一か月(1節)、海が分かれた奇跡も記憶に新しいのに、荒野の飢えと苦しみが及ぶと民は信仰を働かすことができず、「エジプトの地で・・・死んでいたらよかった」などと言い出します(3節)

 度々神の恵みと救いを体験していながら、困難が及ぶと不安に陥り、全能の神がともにおられることを忘れてしまう、人間にはそのような弱さがあります。どのようなときも神を仰ぎ見て信仰を働かすことが大切なのです。

 民はモーセとアロンに向かって、荒野で飢え死にさせようとしていると不平言いますが(2~3節)、民を荒野に導いたのは神であり、彼らに対する不平は、神に対する不平なのです(8)。人に対して言った不平を、神は聞いておられます(7-9)。人にではなく、むしろ神に自分の苦難と欠乏を訴えて祈るべきなのです。

 神は民に荒野の食糧としてマナを与え、毎日、その日の分を集めるよう仰せになります(4)。マナは翌日には腐る、保存できない日ごとの糧だったのです(19~20節)。仰せに従うには、神が毎日マナを与えてくださるという信頼がなければなりません。従うかどうか試みるのは(4)、神に信頼するかどうかが明らかにされるためなのです。マナは、神が日ごとに養ってくださると信頼することを民に学ばせるためのものだったのです。

 七日目は安息日だったので(26)、六日目は二日分のマナを集めるよう命じられます(5節)。普段は保存できないのに、六日目のマナは翌日になっても腐らないのですから(24節)、民は不思議に思ったことでしょう。神の仰せに従って食するマナは、神によって養われていることを覚えさせる、霊的な食物だったのです。

 マナは、日が高くなると溶けてしまうので、民は朝ごとにマナを集めていました(21節)。日が高くなる前に、朝ごとに霊の糧なるみことばから恵みを受けることが大切なのです。

 初めてマナを見た民は、「これは何だろう」と言って驚きます(15節)。地に降りた霜のような細かいものを食糧として養われるとは(14)、彼らは想像すらしていなかったでしょう。人の心に思い浮かんだことがないものを、神は備えておられるのです(コリント人への手紙第一2章9節)

 マナは天から下ったいのちのパンであるキリストの型です(ヨハネの福音書6章48節)。最も忌まわしい屈辱の刑であった十字架の上で人々の罪を贖う救い主というのは、当時の人々の心に思い浮かばないものであったに違いありません。けれども、十字架につけられたキリストこそ、神が備えてくださった救い主だったのです。

 思いも寄らない導きに困惑することがあったとしても、それは神に信頼することを学ばせるためのものです。ご自分の御子さえも惜しむことなく与えてお救いくださった神が、私たちをお見捨てになることなどないのです。むしろ、御子とともにすべてのものを私たちに恵んでくださいます(ローマ人への手紙8章32節)。ですから、どのようなときも神に信頼してまいりましょう。