2023年1月29日 メッセージ要旨 | ||||
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現状がどうあっても 出エジブト記 5章22節~6章13節 |
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私たちは見えるものによらず、信仰によって歩んでいます。 コリント人への手紙第二 5章7節 |
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モーセがファラオにイスラエルの民を去らせるよう御旨を告げると、民はかえって重い労役で虐げられてしまいます(5章1節.23節)。彼らは資材の藁が与えられないのに、これまでと同量のれんがを作らせられる、理不尽で過酷な労役へと追い込まれてしまったのです(5章7~8節)。
けれども、もしモーセが一度遣わされただけで、ファラオがすんなりイスラエルの民を去らせていたとしたら、エジプト脱出はモーセの力量やファラオの許可によるなどと考えて、そこに神の救いの御手の働きをはっきりと認めることができなかったかもしれません。 ファラオはイスラエルの民を去らせることを頑なに拒み続けます。それに対して、神がエジプトに十の災害を及ぼすと、たまりかねたファラオは、最終的に強いられて彼らを国から追い出すことになります(6章1節)。民がなおもファラオの圧政のもとで重い労役に苦しまなければならなかったのは、エジプト脱出が、神の偉大な力によるものであることが明らかにされるためだったのです。 もし、モーセが雄弁で、ファラオが彼の言うことを聞き入れるとなれば、エジプトからの脱出はモーセの力量によって成し遂げられると受け取られかねません。しかし、神は口べたのモーセ(4章10節.6章12節.30節)に民を導き出す役割を担わせておられます。そして、雄弁なアロン(4章14節)を彼の補佐役とします。神は土の器であるモーセに民を導き出す役割を担わせることで、エジプト脱出が神の力によるものであることを明らかになさるのです(コリント人への手紙第二4章7節)。 エジプトの苦役から救い出すのは、ほかでもないご自分の伸ばされた御腕であることを、神は民に示されます(6章6節)。神こそがエジプトでの苦役から導き出す方であることを、民は知ることになるのです(6章7節)。神は、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓った地に民を連れて行き、そこを所有地として与えると約束なさいます(6章8節)。 しかし、イスラエルの民は失意と激しい労働のために、モーセの語る神のことばに聞くことができませんでした(6章9節)。悲惨な現状に目が奪われている民にとって、エジプトからの救出は絶望的に思えたのでしょう。 しかし、絶望的であればあるほど、神の救いの御力がいかに偉大なものであるかが明らかにされます。目に見える現状がどんなに絶望的であろうとも、神は力強い御腕を伸ばして民をお救いになることができるのです。 困難な時は、神の御力が現される機会となります。どのような時も、現状に目を奪われることなく、そこに力強い御腕があることを覚えて、神に信頼してまいりましょう(コリント人への手紙第二5章7節)。 |
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