2021年9月26日 メッセージ要旨
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                     神の国はいつ来るか

                                        ルカの福音書 17章20~37節 
                                                                                                                                    
     
 「見よ、ここだ」とか、「あそこだ」とか言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。
                                      ルカの福音書 17章21節 
 
 [神の国はいつ来るのか?」というパリサイ人らの質問に対して、主イエスは、「あなたがたのただ中にすでに来ている」とかたられました。
 主イエスの働きは、神の国の到来を告げ知らせ、人々を神の国に招き入れることで、ツァラアトに侵された者たちは癒され、耳の聞こえない者たちが聞こえるようになり、死人たちが生き返り、貧しい者たちに福音が伝えられました(ルカの福音書7章22節)。
 こうして、神の国はこの世のただ中に実現されましたが、パリサイ人(ユダヤ教の律法を厳格に実行する一派)たちは、神の国を信じようとぜず、主イエスを処刑してしまいました。主イエスが捨てられてから、再臨までのイエス不在の間、神の国は終わったわけではありません。主イエスはよみがえ
って40日間
弟子らに現れ、神の国のことを語られました(使徒の働き1章3節)。そして弟子らに聖霊をおくる約束をして昇天なさり、10日後の五旬節の日に、聖霊に満たされた彼らは、あらゆる国の人々の所に出て行って神の国に招き入れ、父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、主イエスの命令を守るように教え導きました。
 このように主イエス不在の間も、聖霊による神の国の統治がなされ(ローマ人への手紙14章17節)、神の国は成長し続けております。
 神の国は、客観的に問う仕方で待つことも、人の目で見られ形で特定する事も、人間的な願いや努力で特定する事も許されません。神の国は、何年何月何日に来ると、警戒を促せるようなものではないのです。

 しかし、当時の教会にも、主の日が既に来たかのように聞いて、落ち着きを失ったり、心騒がせたりする者や、主の日が近いと信じて日常の勤労を怠るたる者や、主の日は来ないと言って、誤った生活態度に陥る者がいました(テサロニケ人への手紙第二2章2節~テサロニケ人への手紙第二3章、ペテロの手紙第二3章3~18節)。

 人の子の日は、思いがけない時に来ます。その日、その時がいつかは、誰も知りません(マタイの福音書24章36節)。しかし、その日は稲妻のように、天の端から端まですべての人に等しく知られるようにして訪れます。

 ノアやロトの時代も、イエス処刑の世の世代も、現代も、この世人々は、飲食や結婚や売買や明日の心配をして、神の国にはまったく興味を示そうとしません。しかし、イエス拒否の時代は主の再臨の日滅ばされ、神の国が完全な形で成就されなければなりません。 

 この日、神の国の民と、この世の民が選り分けられ、神の審判が下されます(ヨハネ黙示録3章1~6節)。「血肉のからだ」は、神の国を相続できく(コリント人への手紙第一15章50節)、神の国にはこの世の名誉も地位も、財産も必要ないからです。

 人の子の日は、今日か、明日か、あるいは数世紀後に到来するかもしれません。いつイエスが来られても、道徳的、霊的に準備が出来ていなければなりません。私たちは、主が今日戻って来られるつもりで信仰生活に励んで参りましょう。