2021年9月19日 メッセージ要旨
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                        背負って救う神

                                       イザヤ書 46章1~7節 
                                                                                                                                    
     
 あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ。背負って救い出す。
                                       イザヤ書 46章4節 
 
 バビロンが滅びる危機に際して、その偶像「ベル(バビロニアの守護神)」と「ネボ(バビロニア人の農耕の守護神)」は何の救いにもならず、かえって、疲れた動物の重荷となって運び去られます(1節)

 それに対して、唯一でまことの神は、人を背負い、運んで、救い出す方です。胎内にいるときから、年をとるまで、全生涯を背負ってくださいます(3~4節)

 天地のすべてをお造りになった神は、人をお造りになった方。人に造られた偶像と並べて比べられるような方ではありません(5~6節)。偶像は人が肩に担いで運ばなければならず、安置すると自らの力で動くことはありません。叫んでも答えはなく、苦しみから救ってもくれません(7節)

 人間が願望を成し遂げるために造った神、それが偶像です。ですから、木や石で造った偶像だけではなく、あらゆる願望や、富、地位、名声、といったものが偶像となり得ます。しかし、それらのものは、決して人のたましいを救うことはできません。なぜなら、そこに、生きて存在されるまことの神とのいのちの交わりがないからです。

人の手で造った偶像は、人が担いで運ばなければならず、かえって重荷となります。同じように、自分で作り出した願望は、自分の力で成し遂げなくてはならず、かえってその人の重荷となるのです。

人を背負って救い出してくださる神に拠り頼むことで、人は本当の平安を得るのです。神に拠り頼むことを知らない人は、重荷を自分の力で背負って行かなければなりません。神に拠り頼む私たちは、重荷を担ってお救いくださる神の御前に、荷を降ろすことができるのです(詩篇68篇19節)

神は私たちを愛し、十字架の上で私たちの罪の重荷を負ってくださった御子キリストによって、信じる私たちを罪の重荷から解放し、ご自分との平和と、いのちの交わりを与えてくださいました。

人は年をとると力が衰えて行き、社会の中枢から脇役へと退けられます。しかし、年老いて、力衰えても、神は決して私たちを見放さず、見捨てることはなさらないのです。私たちが年をとっても、神は変わらぬ愛で私たちを背負ってくださるのです(4節)

神は、私たちが生まれる前から私たちを背負って、今に至るまで運んでくださいました。私たちがさらに年を重ねても、なお背負ってくださり、御国にたどり着くまで運んでくださいます。私たちは重荷を引きずって行くのではなく、神に背負われて運ばれて行くのです。私たちを背負って救い出してくださる神の愛を信じて、拠り頼んで、歩んでまいりましょう。