2021年7月18日 メッセージ要旨
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                     さらなる成長を追い求めて

                                          ピリピ人への手紙 3章12~16節 
                                                                                                                                   
     
 私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕らえようとして追求しているのです。そして、それを得るようにと、キリスト・イエスが私を捕らえてくださったのです。                                  
                                       ピリピ人への手紙 3章12節 
 
 キリスト者は、復活するとき(11節)、キリストの栄光に輝くからだと同じ姿に変えられて、完全にされますが(21節)、そこに至る前の地上生涯においては、未完成の、成長の余地が残されている存在なのです(12節)

 完全であるなら、もうそれ以上何も追求する必要はありません。不完全であるからこそ、欠乏を満たそうとして追い求めます(12節)。私たちは自分の欠乏を認識しているでしょうか(ヨハネの黙示録3章17節)

 「自分は完全だ」とは思わなくても、自分の現状に満足していては、それ以上何も望まなくなり、成長を妨げてしまいます。私たちは、未完成で、成長の余地が残されている存在として、自分の欠乏を神に満たしていただくことを追い求めるべきなのです。主はさらに豊かな恵みと御力を私たちに与えて、完全な者(欠点や不足のない者)となるよう私たちを満たそうとしておられます。それを得るようにと、キリスト・イエスが私たちを捕らえてくださったのです(12節)

 何度も失敗したことで、自分は変われないとあきらめたり、霊的祝福を受けたことに満足して、さらなる祝福を追い求めなかったり、過去に心がとらわれていると前進の妨げとなります。うしろのものを忘れ、神が与えようとしておられるものに向かって前進することが大切です(13節)

 競技者がレースに参加することに満足してしまって、だれも賞を目指さず、だらだらと走っていたとしたらどうでしょう。そのようなレースを観戦したいとはだれも思わないでしょう。競技者は競技に参加するだけでは意味がなく、賞を得ることを目指して走ります。クリスチャンも、信仰を持っていることに満足せず、成長を目指して歩むべきなのです(14節)

 バイエルをやっと終えた人に、ショパンのエチュードを弾かせるのは、無理があります。成長を目指すからといって、いきなり高い目標を掲げても無理があるのです。それぞれの成長の度合いに応じて、到達したところを基準にして進むべきなのです(16節)

 私たちは、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもなく、ただ捕らえようとして追求しているのです(12節)。主のさらなる恵みに満たされて、みこころにかなった者へと成長していくことを追い求めてまいりましょう。