2021年6月27日 メッセージ要旨
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                                                                    メッセージ 丸山豊牧師
                     信仰の創始者・完成者であるイエス

                                         へブル人への手紙 12章1~3節 
                                                                                                                                   
     
 信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。
                                  へブル人への手紙 12章2節 
 
 ここでは、信仰生活がマラソン競争に例えられ、「私たちの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないために、イエスから目を離さず、自分の前に置かれている競争を、忍耐をもって走り続けなさい」と薦められています。

 「競争」は、「戦い・苦闘」とも訳されており、「証人」は、「殉教者」の意味があります。パウロは晩年「私は勇敢に戦い抜き、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました」(テモテの手紙第二と語っているように、信仰の馳せ場は、義を慕っての罪との戦いで、多くの試練と苦難を乗り越え全うされる(創世記17章1節・マタイの福音書5章48節)道です。ですから、証人たちは見物人としてではなく、信仰の戦いに勝利した先達として、信仰者たちを励まそうと、私たちを取り巻いているのです。

 イエスが、信仰の創始者・完成者なのは、三年の公生涯の中で、神を信じることを完全な形で見えるようにして人々に教え、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。(ヨハネの福音書14章6節)」と、弟子たちに語って十字架にかかり、人々の反抗を耐え忍びながら、血の全てを注ぎ出して人の罪を贖い、死んで墓に葬られ、三日後に甦って、信仰の創始者となられたからです。そして、神の御座の右に着座して、助け主である聖霊を遣わして信仰者をとりなし支えて父なる神の許に導き、やがて再臨なさって信仰の完成者となられるからです。ヘブル人の手紙9章24~28節には、「過去」に罪を取り除く神の子羊として現れ、「現在」に信仰者をとりなす大祭司として神の御前に現れ続け、「未来」に信仰者の救いの完成のために現れて下さることが記されております。もちろん旧約の人々にとっても、彼らの信仰の生涯を先導した方は先在のメシヤ、顕在のメシヤ、来たるべきメシヤである事に変わりはありません。キリストは、神に近づくための幕屋、子羊の犠牲、人の罪をとりなす大祭司の職務、祭具等を必要としない「オール・イン・ワン」となられ、私たちははばかることなく、神に近づくことができるようになったのです。

 私たちの信仰生活には、さまざまな試練や苦難があって、元気を失い、疲れ果ててしまうこともありますが、キリストが大祭司として、この尊い血によって開かれた道は、私たちが神に近づくための唯一の道であり、この道によって神に近づこうとする者の信仰を、主イエスは確実に全うしてくださいます。イザヤ書46章4節には、「あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ。背負って救い出す」とあって、私たちが力尽きて倒れてしまっても、「信仰の創始者・完成者であるイエス」から目を離さない限り、主は必ず私たちの救いを完成させて下さいます。