2021年2月21日 メッセージ要旨
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                     試練によって明らかにされる信仰

                                          ヨブ記 1章1~22節
                                                                                                                                   
     
       主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。
                                  
                                     ヨブ記 1章21節 (抜粋)
 
 パレスチナ南東のエドム地方のウズに住む富める義人ヨブは、神を恐れる誠実な人でしたが(1節.8節)、サタンはヨブが利害にかかわりなく神を恐れているのではないと訴え(9~10節)、財産を失ってもなお神を恐れるかどうかヨブを試すよう神に迫ります(11節)

 神がヨブの財産をすべてサタンの手に任せると(12節)、大きな試練がヨブに及びます。彼は、盗賊や突風などによって財産を失い、息子娘たちまで亡くしてしまいました(13~19節)

 それでも、彼はサタンの言うように神を呪ったりせず(11節)、神を礼拝し、御名をあがめました(20~21節)。ヨブが、順境の時だけでなく、逆境の時もなお敬虔であることが試練によって証明されたのです。そのように、試練が及ぶのは、その人の信仰がどのようなものであるのかが明らかにされるためなのです。

イスラエルの民は荒野の旅の中で、「なぜ主は、われわれをこの地に導いて来て、剣に倒れるようにされるのか」(民数記14章3節)と不平をもらしています。このつぶやきには、神に悪意があると疑う不信感が表われています。逆境の時に感謝するのは難しく、不平不満を口にしやすいものです。しかし、神はどのような時にも良い方です。神に感謝することには、その神の善意に対する信頼が表わされるのです。

悪魔は、地を行き巡り、だれかを食い尽くそうと探し回っています(7節.ペテロの手紙第一5章8節)。ですから、不満を口にせず、どんな時も神をあがめて、悪魔に付け入るすきを与えないことです。

神を恐れるヨブに試練があったように、正しい方キリストに受難があったように、信仰の歩みには試練があります。私たちは試練にあうとき、キリストの苦難にあずかっているのです。ですから試練を、何か思いがけないことが起こったかのように、不審に思う必要はないのです。むしろ、喜びなさいとあります(ペテロの手紙第一4章12~13節)

神は、試練を耐え忍んだ後のヨブの半生を前の半生に増して祝福されます(42章12節)。神は慈愛に富み、あわれみに満ちておられます(ヤコブの手紙5章11節)。最後まで耐え忍ぶ者は救われるのです。神を愛する人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となります(ローマ人への手紙8章28節)。十字架を耐え忍んだ向こうには復活があります。ですから、信じて耐え忍んでまいりましょう。

ヨブはすべてを失う試練の中で、神をあがめて、神への信仰を明らかにしました。私たちもさまざまな試練の中で、信仰が試されますが、どのような時にも神をあがめ、神への信仰が明らかにされるよう歩んでまいりましょう。