2021年12月19日 メッセージ要旨
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                                                               クリスマス礼拝     
                    御救いを仰ぎ見たシメオン

                                          ルカの福音書 2章25~35節 
                                                                                                                                    
     
      私の目があなたの御救いを見たからです。あなたが万民の前に備えられた救いを。
                                 
                                  ルカの福音書 2章30~31節
 
 キリストの御降誕を祝うクリスマスに、多くの世の人がキリストを抜きにして、キリストの居場所がないクリスマスを過ごしています。

 しかし、それは現在だけのことではなく、イエス様がお生まれになった時も、イエス様を迎え入れる宿すらなかったのです(2章7節)

 けれども、そのような中にあって、シメオンは、幼子のイエス様を救い主キリストとしてお迎えする、数少ない人々の中の一人です。

彼が、腕に抱く幼子のイエス様に神の御救いを見ることができたのは(28.章30節)、聖霊によることです。聖霊が彼の上におられ(25節)、キリストを見るまでは死なないと聖霊によって告げられ(26節)、御霊に導かれて宮に入り、そこで幼子のキリストにお会いします(27節)

 シメオンは、その御救いを、世界のすべての人の前に備えられた救いであると言っています(31節)。彼がそのように言うことができたのは、全世界に救いをもたらすキリストについての聖書の預言があったからです(イザヤ書49章6節)

 さらにシメオンは、その御救いには重い代価が払われることも見抜いていました。イエス様が妨げの石、つまずきの岩となって倒れる人もあれば、イエス様が救いの礎となって立ち上がる人もいる(34節)。いずれもイザヤ書の預言が背景にあります(イザヤ書8章14~15節、28章16節)

 「反対にあうしるし」(34節)の究極にあるのは十字架です。イスラエルの民はイエス様を拒絶し、十字架につけてしまいます。イエス様の死は、剣となってマリアの心さえも刺し貫くことになります(35節)

 シメオンがお会いした救い主キリストは、幼子のイエス様であって、キリストの公生涯の活躍を見たわけではありません。けれども、預言のみことばを握りしめ、御霊によって歩んでいたので、その幼子によって神がもたらそうとしておられる偉大な御救いを、信仰の目で仰ぎ見ることができたのです。

 世の多くの人々が、キリストを自分の救い主として迎えることをせず、罪赦され、神との平和が与えられる十字架の恵みを、いのちを捨てて救いの道を開いてくださったキリストの愛を、自分とはかかわりのないこととして生きています。そして、それが固定されて動かないことのように感じるほど、イエス様を信じて救われる人がなかなか起されません。

 しかし、シメオンが、彼の腕に抱かれている、まだ何もできない幼子のイエス様によって、神が偉大な御救いをもたらされることを、信仰の目で仰ぎ見たように、私たちも、救われる兆しのない人々を、いつの日か必ず神がお救いくださると信じて、待ち望んでまいりましょう。