2021年10月10日 メッセージ要旨
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                        王である神にのみ仕えて

                                       サムエル記第一 8章1~22節 
                                                                                                                                    
     
  あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい。
                                      マタイの福音書 4章10節(抜粋) 
 
 もうけを追い求め、賄賂を受け取り、さばきを曲げていたサムエルの息子たちを(3節)、その務めから外し、ほかの忠実な者をさばきつかさにするよう要求することもできたはずですが、長老たちはそのようにはせず、むしろ王を立てるよう要求します。彼らはサムエルが年をとり、息子たちが忠実ではないことを口実に、これを機会にさばきつかさの制度を廃止し、王政を取り入れようとしたのです(5節)

 けれども、神の民であるイスラエルにとって、王は神おひとりです。その神以外に王を求めるところに、民の心が神から離れていることが示されています(7節)

 他の国の民と全く異なったものであることを期待されている神の民が、王を求めることで、異教の国に倣い、言わばこの世と調子を合わせようとしています(5節)

 そのように、王を求める要求の背後には、神に背いて世に倣おうとする民の背信があり、それは、サムエルの目には悪しきことであったのです(6節)

 しかし、以外にも、神はサムエルに、民の言うことを聞き入れるよう仰せになります(7節)。みこころに反する道を、思うままに進ませることで、神は民をさばかれるのです。

 サムエルのような質素なさばきつかさとは違い、王はそれにふさわしい軍隊や家臣や王宮などを維持するために、人手や財力を必要とします。そのため、民からあらゆるものを取っていきます(11章13~17節)

 それに対して、神は私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくだるのです(テモテの手紙第一6章17節)

 世の王たちは、自分のために民を酷使します(11~12節.16節)。反対に、キリストは、私たちのためにご自分のいのちを捨ててくださいました。私たちを救うために、十字架の上で私たちの罪を負ってくださったのです。

 民は、王を求めることで、王の奴隷となり(17節)、王のゆえに泣き叫ぶことになります(18節)。王に限らず、人は自分が追い求めるものの奴隷となることで、かえって苦しみを味わうことになるのです。

 それに対して、愛に満ちた神に支配される人には、平安と喜びがあります。神はご自分を求める者に豊かに報いてくださいます。

 人は、目に見えない神の支配に依存するよりも、目に見えるものを頼りとしがちなのではないでしょうか。しかし、神の支配のもとで、神の栄光を現すことに、私たち神の民が存在する目的と意義と喜びがあるのです(イザヤ書43章:7節)

 他の何ものでもなく、私たちのまことの王である神を礼拝し、神にのみ仕えて(マタイの福音書4章10節)、神の栄光を現していくことができるよう、歩んでまいりましょう。