2021年1月31日 メッセージ要旨
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                     神の栄光を現すために

                                          エステル記 5章1~14節
                                                                                                                                   
     
 あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい。
                                  コリント人への手紙第一 6章20節
 
 この当時、「王に召されないのに奥の中庭に入って王のところに行く者は、男でも女でも死刑に処せられる。ただし、王がその人に金の笏を差し伸ばせば、その人は処刑をまぬがれます。」という法令がありました(4章11節)。王妃エステルは命の危険を顧みず王に召されないのに奥の中庭に入って行いきましたが、王宮の中庭に立ったエステルは王の好意を得ます(5章2節)。いのちの危険があるにもかかわらず会いに来たのだから、何か重大な要求があるに違いないと王は考えたことでしょう(3節)

 しかし、エステルは、その場ですぐに本心を明かさず、王とハマンを宴会に招き(4節)、その宴会の席でも打ち明けず、二日目の宴会に持ち越します(8節)

エステルは注意深く、話すのに良い神の時をうかがっていたのでしょう(伝道者の書3章7節)。モルデカイに栄誉が与えられて事態が好転した後に(6)、エステルは二日目の宴会でユダヤの民の救いを王に求めることができました(7)。それは、神の摂理によるのです。

コロナ禍にある今、人々に直接会いに行くことも、人々を呼び集めることも、難しい状況にあります。再び教会に人々が集まるようになるには、神の時があるのです。今はその日が来るのを静かに待ち望む時なのかもしれません。

思慮深く黙っていたエステルとは対照的に、ハマンは自分の栄華や誉れについて自慢します(11節)。しかし、彼は二日目の宴会で自分の悪巧みを暴かれ(7)、モルデカイをかけるために立てた柱に(14節)、彼自身がかけられることになります(7章10節)。そのように、世の誉れはいつまでも続くことはなく、時が来ると霧のように消え去るのです。

 コロナが収束し、以前のように何も気にせず人々と会うことが可能となった時、私たちは何を話すのでしょうか。主を証しするのでしょうか。それとも、ハマンのように自分を打ち出すのでしょうか。その時、私たちの心には何があるのでしょうか。主の栄光を喜びとしているでしょうか。それとも、ハマンのように自分の栄誉を喜んでいるのでしょうか。エステルが自分の民族の救いを願ったように、私たちも人々の救いを願っているでしょうか。主の栄光を現す者として整えられていなければ、私たちは主の恵みを人々に届けることができないのです。

 キリストは私たちを救うため、十字架にいのちを捨ててくださいました。御子のいのちという尊い代価を払って買い取られた、その恵みを無駄にしないで、神の栄光を現すよう命じられています(コリント人への手紙第一6章20節)。コロナ禍にあって、事態が好転する神の時を待ち望んでいる今、私たち自身を主の栄光を現す者として整えてまいりましょう。