2020年11月8日 メッセージ要旨
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                     神の摂理の御手

                                            エステル記 1章1~22節
                                                                                                                                   
     
  あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる
                                       詩篇 37篇5節
 
 エステル記には、神の御名が一度も出てきませんが、ユダヤ人が滅亡の危機から劇的に救われた出来事の背後に、目に見えない神の御手が働いていたことが暗示されています。王妃ワシュティが失脚する出来事にも、エステルを王妃とするための準備を進める神の摂理が働いているのです。

 神は、万物を創造された主権者として、人間の営みや、すべての出来事を統治し、ご自身の目的を達成なさいます。そのことを摂理と言います。この世のあらゆる出来事の背後に、神の摂理の御手が働いています。神は、私たちの日常のさまざまな苦難にも御手を働かせて日々お救いくださるのです。

 神の摂理は、世界を御国の完成に向けて導いておられます。世人はそのことを知りません。御民を滅亡の危機から救うエステル記の出来事が、御手のわざを現しているように、神は私たちに日々働かれることで、世人にご自分のみわざを現されるのです。

 クセルクセスの王国の富と栄誉を示して180日にも及んだ宴会は(3~4節)、何も良いものを生みださず、王妃の失脚を招いてしまいました。そのように、この世の栄華は何も良いものを生みださず、やがて消え去ります。しかし、神の国の栄光は、人に祝福をもたらし、永遠に続くのです。

 王妃ワシュティが王の召しを拒んだのは(12節)、彼女が王に対して無礼であったというよりも、やむを得ない事情で彼女が姿を現すことができなかったと考えた方が良いようです。なぜなら、絶大な権力者である王の命令を拒めば大変なことになることは、王妃であれば分かっていたはずだからです。理不尽にも、王は酔った勢いで王妃に無理強いし、拒まれたことを激しく怒って、側近の言うままに王妃を失脚させてしまいます。

 真の王であるキリストは、そのような方ではありません。キリストは、十字架の上で私たちの罪を負ってくださり、私たちに罪赦され神との関係を回復する道を開いてくださいました。私たちを救うためにいのちを捨ててくださった愛に富むキリストこそ、真の王であり、全面的に信頼し、従うことのできるお方です。

 神は私たちに御手を働かせて、私たちの道にご自分の最善の計画を成し遂げてくださいます。主に信頼し、主に従って歩んでまいりましょう(詩篇37篇5節)