2020年11月22日 メッセージ要旨
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                                                             メッセージ  丸山豊牧師 
                      御国を来たらせ給え

                                            マタイの福音書 6章9~15節
                                                                                                                                   
     
  御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。

                                          マタイの福音書 6章10節
 
 主の祈りは、神を愛し、人を愛する(マタイの福音書22章36~40節)という聖書全体の教えに沿っており、前半は御国について、後半は私たちについての祈りです。

 冒頭の「天にまします、われらの父よ」という呼びかけは「神の名をみだりに唱えてはならない」と戒められていたユダヤ人にとっては驚きでした。それは、キリストご自身が人の罪の身代わりとなって十字架にかかり、貴い血を流して律法の下にあるものを贖い出し、子としての身分を与えて下さったからです。(ガラテヤ人への手紙4章5~6節)

<神と神の国に関わる祈り> 

 この世の権力者は自分ファーストで、彼らの計画通りに事が運ぶ保証はなく、結果が悪ければ想定外で処理されてしまい、誰かがその責任を負えるようなものでもありません。

 しかし、聖書は上に立つ権威に従うよう命じております(ローマ人への手紙13章1節)。例えばパウロとシラスが足の不自由な人を癒してあげた時、リステラの人々は二人を神に祭り上げようとしますが、二人は衣を裂いて群衆の中に駆け込み「私たちもあなたがたと同じ人間です」と言って栄光を神に帰しました(使徒の働き14章8~18節)。それとは反対に、神に栄光を帰さなかったヘロデ王は、虫に食われて息絶えたとあります(使徒の働き12章20~23節)。ですから、世の権力者の善悪を裁くのは神のなさる事で、私たちの使命は、あがめるべきお方をあがめ、すべての栄光を神に帰して、父なる神によって統治される「御国を来たらせたまえ」と祈る事です。

<私たちに関わる祈り>

 私たちが自分の必要は自分で満たしていると考えるのは傲慢です。主は「まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます」(マタイの福音書6章33節)とお約束くださいました。イスラエルの民が荒野での40年間マナで養われたのは、神が誰で神が民に何をして下さったかを世に証しするためであったように、私たちも神がどんなお方であるか、神が私たちに何をして下さったかを世に伝えるために、父なる神に祈ってその応えをしっかりと頂いて行く事が大切なのです。

 主の祈りの根本には、人類の究極の希望と、イエスの再臨によって実現する御国への待望があります。また「われらの」とあって、御国をただ中に持つ私たち(ルカの福音書17章21節)にとって祈りは隣人へのとりなし、愛の告白です。ですから、父なる神の霊的支配がこの地の隅々にまで及んで、主イエスによる新天新地の到来を全人類がこぞって待ち望む日が、早く来ますようにと祈って参りましょう。  (丸山豊牧師)