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再び職場に 友保弘治さんを訪ねました
わりと最近のことだが、
アイアイカフェに参加される中年のご夫妻の姿があって、
奥様はいとも気軽に、朗らかにコーヒーを配るのを手伝ったりされ、
白杖を持った旦那様の方は愉快そうに催眠術の話をされたりする。
「何者だろう?」と思っていると、
失明後職場復帰された友保弘治さんだとわかった。
職場復帰とはすごい!
インタビューを申し込むと快く承諾くださり、
貴重な手記も寄せていただいた。
なんと、友保さんは株式会社「キャッド」の社長さんだった。
下水道の設計をする会社で、
例えば水洗トイレなどの下水や、大雨のとき市街地に
あふれる水を収めるための大規模な下水道も手掛けるのだそうだ。
ともかく先ず、手記を読んでみてください。
(原稿は2009年夏に書かれたものです。)
今になって思うこと 友保弘治
私は平成8年に左眼網膜剥離を患い、広島大学病院で手術をしましたが、
焦点を合わせて物を見るための中央付近の網膜が剥がれ、
左眼はほとんど見えなくなり右眼だけでものを見る生活をしておりました。
それでも仕事も車の運転も、その時にはまだ出来、
不自由さは感じておりませんでした。
平成19年6月の木曜日の夜のこと、
40度の熱が出て一晩寝ても熱が下がらず、今まで経験した
ことがないくらいの体の辛さに耐えかね、すぐに病院に行きましたが
風邪のようなものだろうということで、薬をもらってその日は帰りました。
ちょうど週末(金曜日)だったので自宅でずっと床についていました。
その後もずっと40度の熱が続くので不審に思っておりましたら、
日曜日の明け方に肩(腕の付け根)と腰の激しい痛みに襲われました。
あまりの激痛に耐えられなくて、
診察を受けた病院に再度連絡をとりましたが、
日曜日で当直の先生は麻酔科の先生だったため、他の整形外科病院で
診察してもらいました。
その結果は外科的なものではないということで、
結局その日は痛みに耐えながら月曜日を待ちました。
翌日、再度内科を受診し、レントゲン、
MRI等の検査をしておりましたら、その途中にだんだん右目が見えなくなりました。
すぐ先生にそのことを訴えましたが、眼科の診察は翌日となりました。
診察の結果、眼の中が炎症を起こしていることが判明し、
その膿で眼が見えなくなっていたのでした。
病名は「転移性眼内炎」で、失明の例も少なくないそうです。
その夜、膿を取り除く為の手術を受けましたが、
全ての膿はとりきれず、2日後に再度手術を受けました。
そしてまた炎症により網膜が損傷していたため、
その5日後に網膜を補修する手術を受けました。
かなり網膜が剥がれていたため、
網膜を押さえるためのシリコンオイルを眼球に注入しましたが、
食事も歩行も全て一日中うつぶせの状態で3週間をすごしました。
残念ながら眼の神経は非常に弱く、
左眼は目の前で手が動いているかどうかが解る程度にまでしか回復しませんでした。
入院生活も2カ月が過ぎようとした頃といえば、ほとんど視力は戻らず、
院内のエレベーターのボタンさえも押すことが出来ず、
自動販売機で缶コーヒーひとつ買うことの出来ない状態で、
職場への復帰どころか普段の生活も出来ないと、
絶望の日々を過ごしておりました。
しかし生活の為には何かをして働かなくてはと思ってはみるものの、
何をすればよいのか、誰に相談すればよいのかもわからない状態でした。
盲学校に入って3年間修学し
マッサージ師になるしか道はないと考えるようになりましたが、
それも、ただ漠然としたものでした。
結局、入院生活中の約2カ月の間には、視力は回復することはなかったのです。
退院の日、報告を兼ねて会社に立ち寄りました。
社員のみんなが私の復帰のためにパソコンの拡大ソフト、
テキスト読み上げソフト、拡大読書器などの情報や、
ソフトのダウンロードをしてくれていました。
これらに慣れることが出来れば仕事に復帰できるかもしれない。
小さな希望の光を与えてもらいました。
その後、自宅に帰り療養を始めるとともに
パソコンのブラインドタッチを練習しました。
毎日毎日アイウエオと打ち続けました。
会社の仲間や、お客さんとメールのやりとりが出来るようになると、
座っているだけで仕事が出来なくてもいいから会社に出たい、
そんな気持ちになってきました。
夏の終わりには、会社の人に自宅まで迎えに来てもらい、
帰りは妻に仕事の帰りに車で迎えに来てもらいというようにして、
私の会社生活が再び始まりました。
でもこの頃は本当に自分の席に座っているだけでした。
10月の終わりごろから歩行者訓練を始めました。
白杖の使い方、道の歩き方、車の走る音で信号を判断する方法、
バスの乗り方などを歩行訓練士の先生に教えてもらいました。
家の回り、会社の回りを白杖をつきながら先生に付き添われて歩くことは、
すごく恥ずかしく感じられ、とても惨めに思い、
知った人に出会わないようにと願いました。
自分の眼が見えにくくなり、前と同じ生活は出来ないのだということが、
まだ受け入れられない時期だったと思います。
12月の半ば頃には、それでもどうにか一人でバスに乗り、
会社まで行くことが出来るようになりました。
今でもバスに乗るのは苦手ですが、自分ひとりで動けるようになると、
とても世界が広がったような気持になりました。
この頃から、パソコンの拡大画面・テキスト
リーダー・拡大読書器を使いながら、大変ゆっくりではありましたが、
自分一人で出来ることも少しずつ増えていきました。
年が明ける頃、わが業界が最も忙しくなる年度末に突入し、
忙しさについていくのに必死で、もう他のことを考える余裕もなく
自分の出来ることは少しでも試そうと、必死で一日を過ごす毎日でした。
この頃、ようよう病気から復帰したのかなと
少し満足のいく日々を送ることが出来るようになった気がしました。
それから1年半が経とうとしています。
実はあれからあまり進歩していません。
というのも昨年の不景気で、精神的に逆に弱くなったような気もしています。
それでも皆さんのおかげで、社会人として生きていられることに
感謝している今日この頃です。
目が見えにくくなり、失ったものはたくさんあります。
でも、目が見えなくなって始めたことも少しあり、
知り合った人はたくさんいます。
目が見えなくなって始めたこと、それは「催眠術」です。
月に2回ほど京都に行き、
仲間と勉強したりバーで催眠ライブに参加したりしています。
始める時、顔の見分けもつかない状態で多数の人の中にはいるのは
とても不安でしたが、目が見えなくても出来る何かをしなければと
勇気をふり絞り、仲間に入れてもらいました。
全く誰も知らない未知の世界に飛び込むことが、
仕事にも私生活にも少し積極性を与えてくれているのかと思っております。
今でも人の見分けがつかないほどの視力で、
私から声をおかけすることは出来ませんが、
白杖をつき恥ずかしそうに歩いている私を見かけられましたら、
気軽に声をかけてください。これが今の私ですから。
インタビューは会社の一室で、智恵子夫妻も同席してくださった
友保氏ご夫妻。
奥様智恵子さんは当時の病状や治療のようすを話して下さり、
緊迫感が再現されるようでした。
Q:会社の人たちはパソコンの拡大ソフトや読み上げソフト等の情報を、
どうして知り得ておられたのですか?
A:私たちの仕事はパソコンを使ってやるので、
ハンディのある人のためのソフトの存在は元々知っていました。
Q:友保さんはそのような機器やソフトを使いこなすために、
誰かに指導を受けたのですか?
A:拡大読書器等もいくつか試しましたが、
なかなか自分にぴったり合わなかった。
森田(茂樹)さんと電話で話したこともあります。
しかし結局は自分自身で、拡大読書器の画面と音声パソコンの前を
何度も何度も、椅子を右に滑らせ、左に移動して、修得しました。
Q:設計の仕事というと、
図面を引いたり読んだりしなければならないと思いますが、
社長としてどのように仕事をこなすのですか?
A:設計図の作成に関しては有能なスタッフが複数います。
私が図面を見るときは、図は拡大するから見えるが、
数値が見えないので、それは読み上げてもらう。
その他文章を作成することや計算など、
社長としての仕事は自分で出来ます。
人に会うときは会社のスタッフを同行します。
ただ初対面の人の場合など、誰から話しかけられているか
わからなくて、困ることがあります。
Q:歩行訓練は誰に受けたのですか?
A:萬さんです。
萬さんが総合リハビリテーションセンターに移る直前でした。
Q:「自立を進める会」がお役に立ったことがありますか?
A:退院後、佐々木・大石・萬・古寺さんの4人が自宅に来てくださり、
初めて視覚障害者の方々との出会いがありました。
自分と境遇を共有できる人たちとの会話は、
家族にも解ってもらえない内容が話せ、絶望から抜け出る助けになりました。
佐々木会長は「友保さんに元の仕事に復帰してほしい」
と何度も言い続けて下さいました。
そんな方々と触れ合う中で「へこたれたらいけない!」と
強く思うようになり、仕事に復帰することが、
自分自身充実して生きることであり、
家族や会社の人たちに喜んでもらえることだと思い始めました。
Q:社会とのつながりについて、どう考えますか?
A:昨年春、町内会のお花見に白杖をついて参加しました。
今まで話したことのない近所の人たちと会話することが出来たし、
自分の障害を町内の人たちに知ってもらったことで、
白杖を持つことへの抵抗がなくなっていった気がします。
自分から積極的・意識的に社会参加しないと、引きこもってしまって、
自分の人生を狭めてしまう。
出来るだけ社会とつながり、コミュニケーションをとり続けて
いきたいと願っています。
また、私にも何か、社会復帰できないでおられる方々の
お力になれればと思っています。
会社の仕事スペースはパソコンの林。
どの机にもパソコンが載っている。
友保さん自身の机上にも確かにパソコンが2台あって、
拡大読書器に文章を入れると、わっと思うほど鮮明に文字が映し出された。
このソフト名は「ズームテキスト」。
音声パソコンのほうは「PCトーカー」だそうだ。
友保さんは元々パソコンはお手のものもだった。
だからこうした機器を使いこなせるようになるのは速かった。
しかし実際にこれらのパソコンが動くのは、
友保さんの指先と意志と意欲の力だと思った。
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