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一応、ギリギリのラインは考えているのだけれど、切羽詰ってから動き出すことが多い。

と言うのも、自分の場合は、自分を追い込んだ方が効率よく物事を運べて、良い結果が得られることが多いように感じるから。

準備周到にやっていたら恐らくは導き出せなかった(もしくはあの発想には辿り着けなかった)であろうと思うことも多々。

しかも、幸か不幸か、これまで大きな失敗もなく歩んできているので、この性分は今後も変わらないだろう。

しかしながら、一方では、物事をきちんと計画立てて遂行していく人を見ると、自分もそういう風にできればなぁと羨ましく思ったりもする。



作品の制作について

実を言うと、当初はアナログ画の構図や下絵を考えるためのひとつの道具としてデジタルを活用しようと考えていた。

デジタルを活用しようと思った理由としては、デジタルが試行錯誤を繰り返すのに便利で、ちょっとした時間でも色々と試すことができるから。しかも、自分にとってはちょっと億劫な準備もいらず、すぐに取り掛かれるのだ。

そんなことから、その後は、アイディアを素早く形にできて、加筆修正といったことも簡単に行えることから、アナログで仕上げるという事などそっちのけで、今まで漠然と持っていた断片的なアイディアを吐き出すことに夢中になっていた。

それでも、いつかはそれらをベースにアナログで仕上げようという思いは持っていたのだが、思いのほか自分の中にあるものを吐き出すことが楽しかったということもあり、とりあえずはアナログで仕上げることは置いておいて、デジタルでのプロトタイプ制作に没頭していた。

その後は、アナログで仕上げるのは老後の楽しみにしようと考え(笑)、それまではできる限り多くの下絵をストックしておこうと、迷うことなくデジタルでのプロトタイプ制作を続けた。何故、デジタルでの作業に於いてはプロトタイプに留めておくということを初期の段階から決めていたのかと言えば、それはアナログで仕上げる際に創造の余地を残しておきたかったということに他ならない。つまりは、仕上げる際の楽しみを残しておきたかったのだ。

しかしながら、AIの発達が自分の考えを根本から変えてしまった。自分が描いた絵をデータ(素材)として取り込み、それをベースにしてAIが新たな絵を描いてくれるという時代がきたのだ。

AIが作成すると言えども、作品のベースとなるAIが収集する素材は自分が制作した絵となることから、生み出される作品は全てが自分というフィルターを通して作り出される唯一無二のもの(自分自身がAIに同じ指示を出したとしても、以前と同じ作品を生成させることは恐らく不可能)であり、何よりも自分自身が生成された作品を見るのがこれまた楽しいのだ。何しろ、プロトタイプとは言え、これまでに制作してきた作品の数もそこそこあることから、AIにとってはチョイスする組み合わせも割と豊富になるのか、様々ななバリエーションで生成してくるのだ。

ただ、AIも時々おかしな絵を生成したりすることもあり(手や足が3本あったり、頭と体の向きが前後逆になっていたりと)、そういった個所を修正したり、気になる部分を自分が思うように多少加筆したり、彩色を変更したりといった作業は行うところではあるし、当然、作成された絵の取捨選択もある。まぁ、自分が制作する作品のほとんどは抽象画なので、多少おかしなところがあっても案外許容できるんだけどね(笑)。

それでも、叩き台があるということから、ゼロから生み出す作業をすっ飛ばして、より多くの作品を導き出すことができるようになったのは、これまでとはまた違った意味で楽しい。実のところ、AIが作成したものであっても、自分の介入があってこその産物なので、自分自身はこれもまた自分の作品として見ることができるし、許容することもできるのだ。しかも、最後まで自分が決めて完成までもっていくという、これまでやってきた既存の制作方法では味わえなかった「どんなものができるか分からない」という新たな楽しみもあるのだ。

それにしても、これまで制作してきたプロトタイプ画をこうして活用できる日が来ようとは思ってもいなかった。これまで制作し続けてきたことが新たな楽しみを生み出したのだ。言い方を変えれば、素材メーカーとして新たな活路が見い出せたようなところがあると言ってもいい(笑)。そして、20世紀美術に大きな影響を及ぼした現代アートの父とも呼ばれるマルセル・デュシャンの「自分の手で制作したかどうかは重要ではない。彼(芸術家)はそれを選んだのだ」という言葉がここでもまた頭をよぎるのである。

自分としては、晩年は自分がこれまでに制作した作品を日々眺めて過ごしたいなぁと考えていることから、作品の数はできるだけ多い方がいいのである(笑)。そう、全ては自分のためなのだ。

しかも、AIによる作品制作という手段があるということは、ある程度、体の自由が利かなくなっても、素材となる自分の絵さえあれば作品の制作が行えるということなのだ。もしかしたら、将来はこのことが一番嬉しく感じることになるかもしれないし、それが日々の楽しみであり、人生の糧となるのかもしれない。しかしながら、そうなると、制作した作品を眺めるだけの日というのはもう少し先になるのかもしれない(笑)。


作品の展示について

当初表記していた各作品の制作年は現在のところ全て外している。というのも、展示している作品については、AIを活用する以前も、気になる点が見つかれば、ことあるごとに加筆修正を繰り返しており、中には当初の面影すらなくなったようなものも少なくないことから、それを過去の制作年で表記するのは違うような気がして違和感があったのだ。つまりは、10年や20年も前に描いた絵に手を加えるということは、小学生時代に描いた絵を成人してから手を入れて修正するようなものなので、これを小学生時代の絵とするのはやっぱり違うんじゃないかと。

更には、AIを活用するようになって以降も、以前と同様に、気になる点が見つかれば、その都度加筆や修正を行っていることに加えて、何よりも、制作している作品そのものが、制作年の違う各絵をミックスしたものになっていることから、制作年そのものの意味が無くなったのだ。

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