わたしの歩んだ道   

日本共産党との決別

 
   はじめに
 
わたしは、1953年1月、早稲田大学在学中に日本共産党に入党した。以来、1984年7月、後掲の離党届を提出し党員証を返還するまで、31年余にわたり、党員、しかも、この期間の大部分をいわゆる職業革命家(党専従)として活動してきた。あの火焔瓶闘争を清算した「六全協」前の党本部勤務員を振りだしに、東京・中央区委員会副委員長、東京・中部地区委員会常任委員を経たのち、赤旗編集局に勤務し、校正部記者、整理部記者を経て外信部へ移り、ベトナム戦争中のハノイ特派員、外信部副部長、ブカレスト特派員などを歴任した。ブカレスト在任中に、いわゆる「ソ連型社会主義」の現実を体験して根本的疑問をいだき、ひいては、こうした「ソ連型社会主義」の資本主義にたいする優位性を説きつづける、日本共産党の基本路線そのもに批判的になった。当時わたしがいだいていた理想は、ソ連の戦車隊によって蹂躙された「プラハの春」でチェコ共産党が掲げた「人間の顔をした社会主義」の実現であった。
  しかし、現実の日本共産党は、本質的に、民主集中制―この場合の「民主」は、ひとにぎりの最高指導部による全党にたいする独裁=「集中」をおおいかくす「イチジクの葉」にすぎない―を梃子とするソ連型共産党(別名、コミンテルン型共産党)であり、「人間の顔をした社会主義」などの入りこむ余地はなかった。そこで、わたしはなにかと拘束の強い党本部勤務員をやめ、民間企業に就職するかたわら、1982年12月に、イギリスの政治学者マイケル・ウォーラーの『民主主義的中央集権制―歴史的評釈』を翻訳・出版した(青木書店)。当時のわたしの考えを知ってもらい、わたしがなぜあくまで除籍を拒否して離党の承認に固執したのかを理解してもらうため役立つと思うので、同書の「訳者あとがき」からその中心部分を以下に抜粋する。
  本書の……特徴は、今日、二つの意味で有益だと思われる。一つは、「民主集中制」論争のもつ「党組織論」的枠組みをさらにひろげ、社会主義論との相互関連のなかで論争の内実を豊かにするのに役立ちうるという点である。もとより、「政党レベルの組織原則」と「国家レベルの憲法的原則」とは、本来、概念的には別個のものであるべきである。しかし、共産主義運動の生きた現実の歴史は、この点にかんしては、不幸にしてあるべき方向があるべからざる方向にゆがめられていった歴史である。だとすれば、これら二つの概念をただ形式論理的に次元を異にするもの≠ニして片づけるだけでなく、現実の歴史が生みだした混同とゆがみを原理的に究明し、そこから真剣に教訓を汲みとることこそ、歴史の悪しきくりかえしを再現しない保証だからである。その意味で、党の組織原則から国家、社会の憲法的原則への転化の歴史的過程についてのウォーラーの分析は、十分注目に値する。
  第二に、ポーランドの事態を例にひくまでもなく、今日ほど、社会主義とはなんなのかと、そのアイデンティティーが問われているときはないが、「現存する社会主義」のもつ政治的、経済的、社会的、文化的諸問題のどれ一つをとっても、これを掘り下げていくならば、必ず民主主義的中央集権制の「正統派的解釈」に
突き当たるという意味においてである。社会主義が地上に誕生してから、すでに65年もたった今日、改めてそのアイデンティティーが問われなければならないこと自体、きわめて不幸なことであるが、それだけにいっそう、「現存する社会主義」が なぜこのようなものでしかありえなかったのかという歴史的、原理的究明をおこない、二度と同じ道をたどることがないという保証を確立することは急務である。このことを抜きにしていかに未来のばら色をした社会主義像を提示してみても、それは、先進国革命が包含すべき「多数者」 にとって、しょせん、絵に描いたもちにすぎない。 (以上、青字の部分は原文ではいずれも傍点付き)
 わたしの離党問題以来、すでに20年余がたった。だが、日本共産党がいぜん「民主集中制」にしがみつき、近代的・民主的政党になっていないという事態に変わりはない。以下に掲げる諸文書は、もちろん、一般に公開するのは初めてである。しかし、日本共産党が自己改革の気配さえみせない今日、こうした文書を私物化せず、あえてひろく公開し議論の題材を提供することは意味あることだと考える。

◆離党届(1984年7月15日)
  
1953年1月15日入党して以来、約30年、党と人生をともにしてきましたが、この数年間の現指導部の方針、指導の在り方を批判的に考察した結果、こんにちの党は、残念ながら、本質的に「ユーロコミュニズムの衣を着たスターリン主義の党」にほかならず、「人間の顔をした社会主義」の実現を願う小生の立場とあいいれないという結論に達しましたので、ここに党員証を返還し、離党の意志を表明します。
  とりわけ、この数ヵ月来の原水爆禁止運動にたいする現指導部の方針と指導は、まさに「狂気の沙汰」といわざるをえません。それは、党と大衆団体の関係において、大衆組織を、党の方針を国民におしつけるための「伝導ベルト」としかみなさなかったスターリン主義とまったく軌を一にするものであります。国家権力をもたない今日ですら大衆組織にたいしこのような強権的介入をおこなって恥じない党が、もし国家権力をにぎるようなことがあれば、「自由と民主主義の宣言」(この「宣言」自体に問題がないわけではありませんが)などは空文化され―ことばの上では「民主的」だったあのスターリン憲法と同様に―、日本の国から自由と民主主義が姿を消し、事実上、ソ連型の「社会主義」社会が誕生することは火をみるより明らかであります。
  現指導部は、しばしば、「社会主義の復元力」なるものについてのべてきました(ただし、ソ連や中国の例をみても、この「復元力」が、きわめて限定的なものにすぎなかったにもかかわらず、実際上、最高指導者の死をもってしか起動しなかったという事実をどうみているのかは必ずしも明確にされていませんが)。今日の党がどのように官僚主義的に歪められたものになっているにせよ、日本の情勢が党を必要とする限り、いつの日か再生(ポーランド式にいえば、オドノーバ)をよぎなくされる時機は必ず到来するでしょう。その折には、60歳になっているかあるいは70歳になっているかわかりませんが、一兵卒としてふたたび戦列に復帰する用意のあることを表明しておきます。
   東京都北多摩北部地区委員会御中
◆地区委員会からの第1回連絡状(1984年7月19日)
巌名泰得様
                     日本共産党北多摩北部地区委員会  地区委員長 大窪 宏
7月15日、「離党届」を受けとりました。
党規約第11条「党員が離党したいときは、基礎組織または党の機関に事情をのべ承認をもとめる」による手続きをすすめるため、近日中に地区委員会までおいでいただきたいと思います。
ご都合のつく日時をご連絡ください。
◆地区委員会への第1回返書(1984年7月29日)
 
日本共産党北多摩北部地区委員会 地区委員長 大窪 宏殿
 7月19日付連絡状、本7月29日、拙宅の郵便ポストに投げ込まれていました。19日付の文書がなぜ10日もおくれて手便でとどけられたのか、まことに理解にくるしみますが(日付をさかのぼって作成された文書だと考えざるをえません)
 党規約第11条を理由に、地区委員会への出頭がもとめられていますが、同条項は、党員が離党の意志を表明するにあたり、口頭で事情を申告することを義務付けてはいません。また、離党する理由と事情は、すでに7月15日付離党届のなかで明白にのべてあります。したがって、出頭の必要をまったく認めません。
 およそ、前近代的な秘密結社や、ヤクザまがいの組織ならいざ知らず、近代的政党にあっては、その構成員と組織との関係は、自由意志にもとづく一種の「団体契約」(「社会契約」論的な意味における)であります。その限りでは、離党にさいし「承認」を必要条件とすること自体、前近代性のあらわれというべきであります。その意味で、第11条の精神は、離党を表明した党員を拘束するという前近代的な目的からではなく、当該基礎組織と党機関が安易に離党を扱うことを戒め、「離党をおもいとどまるようよう説得する」ため設けられたものと考えるべきであります。
 連絡状によれば、なおこのうえなんらかの「手続き」が必要であるかのようにのべられていますが、前述のように,党規約上からも、すでに提出した離党届で必要かつ十分であると考えます。いたずらに事態を遷延することは、党の官僚性の証明としてしか役立たないでしょう。したがって、すみやかに離党の「手続き」を終えられるようのぞみます。

◆地区委員会からの第2回連絡状(1985年1月8日)
連絡
貴同志より「すみやかに離党の『手続き』を終えられるようのぞみます」という文書を受理し6ヵ月近くなります。
この間、上級機関と協議をしてまいりましたが、やはり地区委員会においでいただきたくふたたびご連絡いたします。 貴同志も規約11条を引用しておられますが、同条の後段で「基礎組織または党の機関は、その事情を検討し会議にかけ離党を認め、一級上の指導機関に報告する」と規定しており地区委員会としてはどうしても事情を聞かなければならないことをご理解いただきぜひお出でくださるよう重ねてご連絡いたします。
                                      日本共産党北多摩北部地区委員会 公印
◆地区委員会への第2回返書(1985年1月14日)
    日本共産党北多摩北部委員会 地区委員長 大窪 宏殿
 
1985年1月8日付の連絡状受けとりました。この連絡状にも引用されているように、「すみやかに離党の『手続き』を終えられるようのぞみます」と回答してから、すでに6ヵ月近くたちました。6ヵ月を経て、あのような回答しかできないということ自体、唾棄すべき官僚主義の表れ以外のなにものでもありませんが、それはともかくとして、@党規約第11条は、党員が離党の意志を表明するにあたり、口頭で事情を申告することを義務づけてはいない、A離党の理由と事情は、すでに1984年7月15日付離党届のなかで必要かつ十分にのべてある、という小生の立場にはいささかも変わりありません。したがって、今後ともに、出頭の必要をまったく認めず、その意思もありません。
 元来、自己の信条にもとづきある結社に加入すること、あるいはまた、自己の信条にそぐわなくなったと判断した場合この結社から脱退することは、ともに、世界人権宣言と日本国憲法にもとづく思想信条の自由、基本的人権にかかわる問題です。その点、今日にいたるも正当な事由なく離党の意志の実現がさまたげられていることは、小生の基本的人権にたいする重大な侵害であり、小生に多大の精神的苦痛を強制するものとなっています。
 現指導部は、しばしば基本的人権にたいし「結社の自由」なるものを対置し、事実上、これを基本的人権に優先させています。しかし、そもそも、政党をふくめ、結社とは、各人が自らの思想・信条を実現する手段として結成あるいは加入するものであります。したがって、基本的人権あっての結社の自由であり、その逆ではありえません。その意味で、結社の自由は、基本的人権をそこなわない範囲内で合理的に作用すべきものであり、けっして基本的人権を侵害するものであってはなりません。もし結社の自由を基本的人権よりも優先させるような論理が組織原理としてまかりとおるならば、それは、少なくとも近代政党の規律ではなく、組織にたいする個人の絶対的隷属をしいるヤクザ組織か前近代的宗教団体の「おきて」に等しいといわなければなりません。
 党規約第1条は、「党の綱領と規約をみとめ」ることを党員となるための条件として定めていますが、離党の意志を表明するということは、とりもなおさず、すでに基本的に綱領と規約をみとめる意志がまったくないことの表明にほかなりません。したがって、近代的人権概念からすれば、離党を表明した者は、本質的には、離党意志の表明の瞬間から、党員としての拘束から解放されたとみなすべきであります。「7月19日付」の貴地区委員会の事務連絡は、党規約第11条にふれながら、なぜか「党員は離党することができる」とのべ離党を党員の権利として保障した前段の部分をはぶき、「その事情をのべ承認をもとめる」という「条件」だけを引用しています。しかし、すでにのべたことからも明らかなように、離党の意志の表明があった瞬間から、組織とその構成員のあいだの「団体契約」関係は終了したとみなすべきであり、「承認条件」は、離党表明者の意志の実現を不当にさまたげるようなものであってはなりません。この「不当に」ということのうちには、当然ながら時間の要素も含まれています。そうでなければ、承認をいつまでもひきのばし、党員の権利の行使を事実上さまたげることが可能となるばかりか、すでに本質的には党員としての拘束から解放された人物の―したがって、本来は党規約上の制裁措置の及ばなくなっている人物の―そのごの行動を理由に、「規律違反」による制裁を加えることも可能となるからであります。意見の相違を理由に離党すること自体を「反党行為」であるかのようにみなす現指導部のスターリン主義的体質からみて、第11条の「条件」が、このように悪用される危険も十分あります。しかし、近代的政党にあるまじきそのような姑息かつ陰険な小細工を弄するならば、その結果は党の自殺行為にほかならないでしょう。なぜなら、そうした前近代的な党の体質をもってしては、国民の大多数の支持のもとに多数者革命を遂行することなど論外だからであります。
 冒頭にのべたように、小生の離党表明から、すでに6ヵ月近く経過し、しかも、なんら正当な事由の説明もなく「承認」がひきのばされています。小生としては、もとより、好んで事を構えるつもりはありませんが、同時に、現在のように陰湿、姑息な官僚的対応をいつまでも甘受しているつもりも毛頭ありません。今後ともこのような事態がつづくならば、不本意ながら、人権擁護委員会その他しかるべき公的機関をつうじ小生の自由意志と基本的人権にたいする不当な拘束を排除することも、真剣に考慮せざるをえないと考えています。ついては、最大限すみやかに離党承認の手続きを終えるよう三たび要求するとともに、本状到着後二週間以内に、7月29日付書状ならびに本状にたいする貴地区委員会の見解を文書で回答するよう求めます。
  
◆地区委員会への最終返書(1985年2月12日)
    
日本共産党北多摩北部地区委員会 地区委員長 大窪 宏殿
 去る1月26日、貴殿から、電話で、1月25日、党規約第12条にもとづき、小生を除籍した旨の連絡がありましたが、これにたいし、小生からは、翌27日、貴殿にたいし、電話で、@この問題をめぐりこれまで半年間に2回地区委員会から連絡状がきているが、いずれも党規約第11条にもとづくものであり、突然、第12条に切り換わったことは筋がとおらないし、納得できない、A第12条は、後述の中央委員会報告に照らしても、「本人の納得ずくでおこなうことを原則」とするものであり、小生としてはこの措置を納得しない、B第11条の離党承認の条件として、「党を支持することには変わりはないが………」という場合に限られる旨、電話でのべられたが、8大会以来のどんな決定にも、そのような条件は示されていない、Cいずれにせよ、貴方が確信を持っておこなう措置であれば、文書で明示できるはずであり、あくまでも文書回答を求める、の四点を知らせました。
 第16回党大会における「党規約の一部改正についての中央委員会報告」のなかで、離党にかんしては、「入党、離党は当然本人の自由意志にもとづくものですから、離党手続きを規定している第11条は、『党員は離党することができる』と明記したうえで、離党したいときは、本人の所属する基礎組織または党の機関に事情をのべ承認をもとめる、離党の申し出を受けた基礎組織または党の機関の側は、会議にかけ、事情は検討するが、本人の離党の意志が明確な場合これを承認して一級上の指導機関に報告するだけで、その承認がなければ離党は認めないとしてはいないわけです。………離党を表明するにいたった事情をきき、党にとどまるよう説得し援助することは当然ですが、結論は本人の自由意志にまかされるものです」とのべられています。
 当然のことながら、ここには、「離党後もひきつづき党を支持しつづけることが承認の条件である」「党の現路線に批判的な場合は、離党を認めず、 除籍とする」などとはのべられていません。近代政党の運営は、あくまで党員大衆に明示されたルールにのっとっておこなわれるべきであり、党の正式文書にない勝手な解釈によっておこなわれるべきではありません。これは、近代政党としての資格を満たす最低の条件であります。
 以上、党の正式文書に照らしても、小生の離党申請は、必要かつ十分に条件を満たしており、これを承認しない根拠はまったくみいだせません。したがって、この期におよんで、みずからのこれまでの態度とも矛盾する論理のすり替えなどおこなうことなく、すみやかに離党手続きを終えられるよう、改めて要求するとともに、本状到着後、二週間以内に、貴地区委員会の見解を文書で回答されるよう求めます。
 なお、期限内に貴方の誠意ある対応がみられない場合、先に1月14日付書簡で述べたように、人権擁護委員会等に問題を提出し、公的に解決をはかるため行動を起こすこともありうることを付け加えておきます。

   
おわりに
 
わたしの「最終返書」にたいする回答はついにこなかった。人権擁護委員会等への提訴はおこなわなかった。それは、生活に追われてそんなことをしている暇はなかったこともあるが、「こんな連中を相手になにをしても無駄だ」というあきらめの気持ちが強かったからである。
 最後に、三つのことを付けくわえておこう。
 一つは、その後伝え聞いたところによると、これらの文書のやりとりをしていた当の相手の「日本共産党北多摩北部地区委員会 地区委員長 大窪  宏」氏が、妻子を置き去りにして、若い女性といっしょに蒸発してしまったということである。
 二つ目は、離党届を提出したあとで、一年前の日付にさかのぼって、「永年党員証」が届けられたことである。地区委員会と手紙でやりとりが始まったのちのある夜のこと、東京都委員会組織部の某氏から電話があり、わたしの入党年月日をたずねてきた。某氏は、わたしが東京・中部地区委員会の常任委員をしていたころ、同地区委の組織部員をしていた人で、中国帰りのまじめを絵に描いたような党員であった。党歴30年を超えているので、「永年党員証」を受けとってくれという。すでに離党届を提出したのでそのようなものはいらないと答えると、「いや、規則なのでもらってもらわないと困る」とのことだった。20年も前のことなので、どういう経路でそれがわたしのもとへ届けられたのかはさだかでないが、いまわたしの目の前には、「貴同志が党歴三十年をこえ長期にわたってこの党の党員として活動したことを記念し本証書と記章を贈ります 一九八三年七月十日 日本共産党中央委員会 公印」という証書と、桐の小箱に入った党章のバッジがある。突き返すのも大人げないと思い受けとったものであろう。それにしても、官僚主義と形式主義の関係をまざまざと示す出来事だった。
 三つ目は、もっと重大なことだが、その次の第17回党大会(1985年)で「党員は離党することができる」という条文の最後に「ただし、反党活動など党規律違反行為をおこなっている場合は、そのかぎりではない」という字句が付けくわえられたことである。このただし書き自体に問題があるが、それはそれとして、当時、わたしはいかなる意味でも党規律違反はおかしておらず、地区委員会からもそのような指摘を受けたことはない。わたし自身は、いまでも、除籍ではなくみずから決別・離党したものであると考えている。
 聞くところによると、日本共産党は、この数年来、党員・読者ともに大幅に減少し、数回にわたる「党勢拡大」カンパニアにもかかわらず、この傾向に歯止めがかからない状態にあるという。とりわけ学生・青年層のあいだで党がまったく魅力を失い、後継者難におちいっているという。少子高齢化社会がいわれているが、日本でもっとも少子高齢化が進んでいるのは、日本共産党だといえよう。結果は、おのずから明らかである。20年後、30年後に日本共産党は生物学的にも存在しえなくなるということである。
 解決策は、ただ一つしかなかろう。「コミンテルン型共産党」につながる党名を変更し、民主集中制を廃止して、党員が自由に自分の意見を表明できるような開かれた近代的・民主主義政党に脱皮することである。もともと、ロシア共産党ですら、権力奪取以前は、ロシア社会民主労働党であった。社会民主党の左派が分裂してその後の共産主義政党になったのである。共産主義運動が壮大な実験の結果、世界的に失敗に終わった現在、エンゲルスが指導していたころの正統的社会民主主義に復帰することになんのためらいがあろうか。くりかえして言おう。日本共産党が老衰・自壊の道をたどりたくなければ、これ以外に選択肢はない。(最終加筆=2006年7月5日)