わたしの歩んだ道   

わが生誕
 
わたしは1931(昭和6)年3月21日、東京府北豊島郡石神井村大字下石神井1302番地(後に東京市板橋区[現・東京都練馬区]下石神井2丁目1302番地に生まれた。父は巌名梅吉、母は治枝で、四男一女の末子・四男である(長男「和夫」と三男「大義」は小児肺炎で死亡)。









日本共産党との決別

    はじめに
 
わたしは、1953年1月、早稲田大学在学中に日本共産党に入党した。以来、1984年7月、後掲の離党届を提出し党員証を返還するまで、31年余にわたり、党員、しかも、この期間の大部分をいわゆる職業革命家(党専従)として活動してきた。あの火焔瓶闘争を清算した「六全協」前の党本部勤務員を振りだしに、東京・中央区委員会副委員長、東京・中部地区委員会常任委員を経たのち、赤旗編集局に勤務し、校正部記者、整理部記者を経て外信部へ移り、ベトナム戦争中のハノイ特派員、外信部副部長、ブカレスト特派員などを歴任した。ブカレスト在任中に、いわゆる「ソ連型社会主義」の現実を体験して根本的疑問をいだき、ひいては、こうした「ソ連型社会主義」の資本主義にたいする優位性を説きつづける、日本共産党の基本路線そのもに批判的になった。当時わたしがいだいていた理想は、ソ連の戦車隊によって蹂躙された「プラハの春」でチェコ共産党が掲げた「人間の顔をした社会主義」の実現であった。
  しかし、現実の日本共産党は、本質的に、民主集中制―この場合の「民主」は、ひとにぎりの最高指導部による全党にたいする独裁=「集中」をおおいかくす「イチジクの葉」にすぎない―を梃子とするソ連型共産党(別名、コミンテルン型共産党)であり、「人間の顔をした社会主義」などの入りこむ余地はなかった。そこで、わたしはなにかと拘束の強い党本部勤務員をやめ、民間企業に就職するかたわら、1982年12月に、イギリスの政治学者マイケル・ウォーラーの『民主主義的中央集権制―歴史的評釈』を翻訳・出版した(青木書店)。当時のわたしの考えを知ってもらい、わたしがなぜあくまで除籍を拒否して離党の承認に固執したのかを理解してもらうため役立つと思うので、同書の「訳者あとがき」からその中心部分を以下に抜粋する。
  本書の……特徴は、今日、二つの意味で有益だと思われる。一つは、「民主集中制」論争のもつ「党組織論」的枠組みをさらにひろげ、社会主義論との相互関連のなかで論争の内実を豊かにするのに役立ちうるという点である。もとより、「政党レベルの組織原則」と「国家レベルの憲法的原則」とは、本来、概念的には別個のものであるべきである。しかし、共産主義運動の生きた現実の歴史は、この点にかんしては、不幸にしてあるべき方向があるべからざる方向にゆがめられていった歴史である。だとすれば、これら二つの概念をただ形式論理的に次元を異にするもの≠ニして片づけるだけでなく、現実の歴史が生みだした混同とゆがみを原理的に究明し、そこから真剣に教訓を汲みとることこそ、歴史の悪しきくりかえしを再現しない保証だからである。その意味で、党の組織原則から国家、社会の憲法的原則への転化の歴史的過程についてのウォーラーの分析は、十分注目に値する。
  第二に、ポーランドの事態を例にひくまでもなく、今日ほど、社会主義とはなんなのかと、そのアイデンティティーが問われているときはないが、「現存する社会主義」のもつ政治的、経済的、社会的、文化的諸問題のどれ一つをとっても、これを掘り下げていくならば、必ず民主主義的中央集権制の「正統派的解釈」に突き当たるという意味においてである。社会主義が地上に誕生してから、すでに65年もたった
今日、改めてそのアイデンティティーが問われなければならないこと自体、きわめて不幸なことであるが、それだけにいっそう、「現存する社会主義」が なぜこのようなものでしかありえなかったのかという歴史的、原理的究明をおこない、二度と同じ道をたどることがないという保証を確立することは急務である。このことを抜きにしていかに未来のばら色をした社会主義像を提示してみても、それは、先進国革命が包含すべき「多数者」 にとって、しょせん、絵に描いたもちにすぎない。 (以上、太字の部分は原文ではいずれも傍点付き)
 わたしの離党問題以来、すでに20年余がたった。だが、日本共産党がいぜん「民主集中制」にしがみつき、近代的・民主的政党になっていないという事態に変わりはない。以下に掲げる諸文書は、もちろん、一般に公開するのは初めてである。しかし、日本共産党が自己改革の気配さえみせない今日、こうした文書を私物化せず、あえてひろく公開し議論の題材を提供することは意味あることだと考える。

◆離党届(1984年7月15日)
  
1953年1月15日入党して以来、約30年、党と人生をともにしてきましたが、この数年間の現指導部の方針、指導の在り方を批判的に考察した結果、こんにちの党は、残念ながら、本質的に「ユーロコミュニズムの衣を着たスターリン主義の党」にほかならず、「人間の顔をした社会主義」の実現を願う小生の立場とあいいれないという結論に達しましたので、ここに党員証を返還し、離党の意志を表明します。
  とりわけ、この数ヵ月来の原水爆禁止運動にたいする現指導部の方針と指導は、まさに「狂気の沙汰」といわざるをえません。それは、党と大衆団体の関係において、大衆組織を、党の方針を国民におしつけるための「伝導ベルト」としかみなさなかったスターリン主義とまったく軌を一にするものであります。国家権力をもたない今日ですら大衆組織にたいしこのような強権的介入をおこなって恥じない党が、もし国家権力をにぎるようなことがあれば、「自由と民主主義の宣言」(この「宣言」自体に問題がないわけではありませんが)などは空文化され―ことばの上では「民主的」だったあのスターリン憲法と同様に―、日本の国から自由と民主主義が姿を消し、事実上、ソ連型の「社会主義」社会が誕生することは火をみるより明らかであります。
  現指導部は、しばしば、「社会主義の復元力」なるものについてのべてきました(ただし、ソ連や中国の例をみても、この「復元力」が、きわめて限定的なものにすぎなかったにもかかわらず、実際上、最高指導者の死をもってしか起動しなかったという事実をどうみているのかは必ずしも明確にされていませんが)。今日の党がどのように官僚主義的に歪められたものになっているにせよ、日本の情勢が党を必要とする限り、いつの日か再生(ポーランド式にいえば、オドノーバ)をよぎなくされる時機は必ず到来するでしょう。その折には、60歳になっているかあるいは70歳になっているかわかりませんが、一兵卒としてふたたび戦列に復帰する用意のあることを表明しておきます。
   東京都北多摩北部地区委員会御中
◆地区委員会からの第1回連絡状(1984年7月19日)
巌名泰得様
                     日本共産党北多摩北部地区委員会  地区委員長 大窪 宏
7月15日、「離党届」を受けとりました。
党規約第11条「党員が離党したいときは、基礎組織または党の機関に事情をのべ承認をもとめる」による手続きをすすめるため、近日中に地区委員会までおいでいただきたいと思います。
ご都合のつく日時をご連絡ください。
◆地区委員会への第1回返書(1984年7月29日)
 
日本共産党北多摩北部地区委員会 地区委員長 大窪 宏殿
 7月19日付連絡状、本7月29日、拙宅の郵便ポストに投げ込まれていました。19日付の文書がなぜ10日もおくれて手便でとどけられたのか、まことに理解にくるしみますが(日付をさかのぼって作成された文書だと考えざるをえません)
 党規約第11条を理由に、地区委員会への出頭がもとめられていますが、同条項は、党員が離党の意志を表明するにあたり、口頭で事情を申告することを義務付けてはいません。また、離党する理由と事情は、すでに7月15日付離党届のなかで明白にのべてあります。したがって、出頭の必要をまったく認めません。
 およそ、前近代的な秘密結社や、ヤクザまがいの組織ならいざ知らず、近代的政党にあっては、その構成員と組織との関係は、自由意志にもとづく一種の「団体契約」(「社会契約」論的な意味における)であります。その限りでは、離党にさいし「承認」を必要条件とすること自体、前近代性のあらわれというべきであります。その意味で、第11条の精神は、離党を表明した党員を拘束するという前近代的な目的からではなく、当該基礎組織と党機関が安易に離党を扱うことを戒め、「離党をおもいとどまるようよう説得する」ため設けられたものと考えるべきであります。
 連絡状によれば、なおこのうえなんらかの「手続き」が必要であるかのようにのべられていますが、前述のように,党規約上からも、すでに提出した離党届で必要かつ十分であると考えます。いたずらに事態を遷延することは、党の官僚性の証明としてしか役立たないでしょう。したがって、すみやかに離党の「手続き」を終えられるようのぞみます。

◆地区委員会からの第2回連絡状(1985年1月8日)
連絡
貴同志より「すみやかに離党の『手続き』を終えられるようのぞみます」という文書を受理し6ヵ月近くなります。
この間、上級機関と協議をしてまいりましたが、やはり地区委員会においでいただきたくふたたびご連絡いたします。 貴同志も規約11条を引用しておられますが、同条の後段で「基礎組織または党の機関は、その事情を検討し会議にかけ離党を認め、一級上の指導機関に報告する」と規定しており地区委員会としてはどうしても事情を聞かなければならないことをご理解いただきぜひお出でくださるよう重ねてご連絡いたします。
                                       日本共産党北多摩北部地区委員会 公印
◆地区委員会への第2回返書(1985年1月14日)
    日本共産党北多摩北部委員会 地区委員長 大窪 宏殿
 
1985年1月8日付の連絡状受けとりました。この連絡状にも引用されているように、「すみやかに離党の『手続き』を終えられるようのぞみます」と回答してから、すでに6ヵ月近くたちました。6ヵ月を経て、あのような回答しかできないということ自体、唾棄すべき官僚主義の表れ以外のなにものでもありませんが、それはともかくとして、@党規約第11条は、党員が離党の意志を表明するにあたり、口頭で事情を申告することを義務づけてはいない、A離党の理由と事情は、すでに1984年7月15日付離党届のなかで必要かつ十分にのべてある、という小生の立場にはいささかも変わりありません。したがって、今後ともに、出頭の必要をまったく認めず、その意思もありません。
 元来、自己の信条にもとづきある結社に加入すること、あるいはまた、自己の信条にそぐわなくなったと判断した場合この結社から脱退することは、ともに、世界人権宣言と日本国憲法にもとづく思想信条の自由、基本的人権にかかわる問題です。その点、今日にいたるも正当な事由なく離党の意志の実現がさまたげられていることは、小生の基本的人権にたいする重大な侵害であり、小生に多大の精神的苦痛を強制するものとなっています。
 現指導部は、しばしば基本的人権にたいし「結社の自由」なるものを対置し、事実上、これを基本的人権に優先させています。しかし、そもそも、政党をふくめ、結社とは、各人が自らの思想・信条を実現する手段として結成あるいは加入するものであります。したがって、基本的人権あっての結社の自由であり、その逆ではありえません。その意味で、結社の自由は、基本的人権をそこなわない範囲内で合理的に作用すべきものであり、けっして基本的人権を侵害するものであってはなりません。もし結社の自由を基本的人権よりも優先させるような論理が組織原理としてまかりとおるならば、それは、少なくとも近代政党の規律ではなく、組織にたいする個人の絶対的隷属をしいるヤクザ組織か前近代的宗教団体の「おきて」に等しいといわなければなりません。
 党規約第1条は、「党の綱領と規約をみとめ」ることを党員となるための条件として定めていますが、離党の意志を表明するということは、とりもなおさず、すでに基本的に綱領と規約をみとめる意志がまったくないことの表明にほかなりません。したがって、近代的人権概念からすれば、離党を表明した者は、本質的には、離党意志の表明の瞬間から、党員としての拘束から解放されたとみなすべきであります。「7月19日付」の貴地区委員会の事務連絡は、党規約第11条にふれながら、なぜか「党員は離党することができる」とのべ離党を党員の権利として保障した前段の部分をはぶき、「その事情をのべ承認をもとめる」という「条件」だけを引用しています。しかし、すでにのべたことからも明らかなように、離党の意志の表明があった瞬間から、組織とその構成員のあいだの「団体契約」関係は終了したとみなすべきであり、「承認条件」は、離党表明者の意志の実現を不当にさまたげるようなものであってはなりません。この「不当に」ということのうちには、当然ながら時間の要素も含まれています。そうでなければ、承認をいつまでもひきのばし、党員の権利の行使を事実上さまたげることが可能となるばかりか、すでに本質的には党員としての拘束から解放された人物の―したがって、本来は党規約上の制裁措置の及ばなくなっている人物の―そのごの行動を理由に、「規律違反」による制裁を加えることも可能となるからであります。意見の相違を理由に離党すること自体を「反党行為」であるかのようにみなす現指導部のスターリン主義的体質からみて、第11条の「条件」が、このように悪用される危険も十分あります。しかし、近代的政党にあるまじきそのような姑息かつ陰険な小細工を弄するならば、その結果は党の自殺行為にほかならないでしょう。なぜなら、そうした前近代的な党の体質をもってしては、国民の大多数の支持のもとに多数者革命を遂行することなど論外だからであります。
 冒頭にのべたように、小生の離党表明から、すでに6ヵ月近く経過し、しかも、なんら正当な事由の説明もなく「承認」がひきのばされています。小生としては、もとより、好んで事を構えるつもりはありませんが、同時に、現在のように陰湿、姑息な官僚的対応をいつまでも甘受しているつもりも毛頭ありません。今後ともこのような事態がつづくならば、不本意ながら、人権擁護委員会その他しかるべき公的機関をつうじ小生の自由意志と基本的人権にたいする不当な拘束を排除することも、真剣に考慮せざるをえないと考えています。ついては、最大限すみやかに離党承認の手続きを終えるよう三たび要求するとともに、本状到着後二週間以内に、7月29日付書状ならびに本状にたいする貴地区委員会の見解を文書で回答するよう求めます。
  
◆地区委員会への最終返書(1985年2月12日)
    
日本共産党北多摩北部地区委員会 地区委員長 大窪 宏殿
 去る1月26日、貴殿から、電話で、1月25日、党規約第12条にもとづき、小生を除籍した旨の連絡がありましたが、これにたいし、小生からは、翌27日、貴殿にたいし、電話で、@この問題をめぐりこれまで半年間に2回地区委員会から連絡状がきているが、いずれも党規約第11条にもとづくものであり、突然、第12条に切り換わったことは筋がとおらないし、納得できない、A第12条は、後述の中央委員会報告に照らしても、「本人の納得ずくでおこなうことを原則」とするものであり、小生としてはこの措置を納得しない、B第11条の離党承認の条件として、「党を支持することには変わりはないが………」という場合に限られる旨、電話でのべられたが、8大会以来のどんな決定にも、そのような条件は示されていない、Cいずれにせよ、貴方が確信を持っておこなう措置であれば、文書で明示できるはずであり、あくまでも文書回答を求める、の四点を知らせました。
 第16回党大会における「党規約の一部改正についての中央委員会報告」のなかで、離党にかんしては、「入党、離党は当然本人の自由意志にもとづくものですから、離党手続きを規定している第11条は、『党員は離党することができる』と明記したうえで、離党したいときは、本人の所属する基礎組織または党の機関に事情をのべ承認をもとめる、離党の申し出を受けた基礎組織または党の機関の側は、会議にかけ、事情は検討するが、本人の離党の意志が明確な場合これを承認して一級上の指導機関に報告するだけで、その承認がなければ離党は認めないとしてはいないわけです。………離党を表明するにいたった事情をきき、党にとどまるよう説得し援助することは当然ですが、結論は本人の自由意志にまかされるものです」とのべられています。
 当然のことながら、ここには、「離党後もひきつづき党を支持しつづけることが承認の条件である」「党の現路線に批判的な場合は、離党を認めず、 除籍とする」などとはのべられていません。近代政党の運営は、あくまで党員大衆に明示されたルールにのっとっておこなわれるべきであり、党の正式文書にない勝手な解釈によっておこなわれるべきではありません。これは、近代政党としての資格を満たす最低の条件であります。
 以上、党の正式文書に照らしても、小生の離党申請は、必要かつ十分に条件を満たしており、これを承認しない根拠はまったくみいだせません。したがって、この期におよんで、みずからのこれまでの態度とも矛盾する論理のすり替えなどおこなうことなく、すみやかに離党手続きを終えられるよう、改めて要求するとともに、本状到着後、二週間以内に、貴地区委員会の見解を文書で回答されるよう求めます。
 なお、期限内に貴方の誠意ある対応がみられない場合、先に1月14日付書簡で述べたように、人権擁護委員会等に問題を提出し、公的に解決をはかるため行動を起こすこともありうることを付け加えておきます。

   
おわりに
 
わたしの「最終返書」にたいする回答はついにこなかった。人権擁護委員会等への提訴はおこなわなかった。それは、生活に追われてそんなことをしている暇はなかったこともあるが、「こんな連中を相手になにをしても無駄だ」というあきらめの気持ちが強かったからである。
 最後に、三つのことを付けくわえておこう。
 一つは、その後伝え聞いたところによると、これらの文書のやりとりをしていた当の相手の「日本共産党北多摩北部地区委員会 地区委員長 大窪  宏」氏が、妻子を置き去りにして、若い女性といっしょに蒸発してしまったということである。
 二つ目は、離党届を提出したあとで、一年前の日付にさかのぼって、「永年党員証」が届けられたことである。地区委員会と手紙でやりとりが始まったのちのある夜のこと、東京都委員会組織部の某氏から電話があり、わたしの入党年月日をたずねてきた。某氏は、わたしが東京・中部地区委員会の常任委員をしていたころ、同地区委の組織部員をしていた人で、中国帰りのまじめを絵に描いたような党員であった。党歴30年を超えているので、「永年党員証」を受けとってくれという。すでに離党届を提出したのでそのようなものはいらないと答えると、「いや、規則なのでもらってもらわないと困る」とのことだった。20年も前のことなので、どういう経路でそれがわたしのもとへ届けられたのかはさだかでないが、いまわたしの目の前には、「貴同志が党歴三十年をこえ長期にわたってこの党の党員として活動したことを記念し本証書と記章を贈ります 一九八三年七月十日 日本共産党中央委員会 公印」という証書と、桐の小箱に入った党章のバッジがある。突き返すのも大人げないと思い受けとったものであろう。それにしても、官僚主義と形式主義の関係をまざまざと示す出来事だった。
 三つ目は、もっと重大なことだが、その次の第17回党大会(1985年)で「党員は離党することができる」という条文の最後に「ただし、反党活動など党規律違反行為をおこなっている場合は、そのかぎりではない」という字句が付けくわえられたことである。このただし書き自体に問題があるが、それはそれとして、当時、わたしはいかなる意味でも党規律違反はおかしておらず、地区委員会からもそのような指摘を受けたことはない。わたし自身は、いまでも、除籍ではなくみずから決別・離党したものであると考えている。
 聞くところによると、日本共産党は、この数年来、党員・読者ともに大幅に減少し、数回にわたる「党勢拡大」カンパニアにもかかわらず、この傾向に歯止めがかからない状態にあるという。とりわけ学生・青年層のあいだで党がまったく魅力を失い、後継者難におちいっているという。少子高齢化社会がいわれているが、日本でもっとも少子高齢化が進んでいるのは、日本共産党だといえよう。結果は、おのずから明らかである。20年後、30年後に日本共産党は生物学的にも存在しえなくなるということである。
 解決策は、ただ一つしかなかろう。「コミンテルン型共産党」につながる党名を変更し、民主集中制を廃止して、党員が自由に自分の意見を表明できるような開かれた近代的・民主主義政党に脱皮することである。もともと、ロシア共産党ですら、権力奪取以前は、ロシア社会民主労働党であった。社会民主党の左派が分裂してその後の共産主義政党になったのである。共産主義運動が壮大な実験の結果、世界的に失敗に終わった現在、エンゲルスが指導していたころの正統的社会民主主義に復帰することになんのためらいがあろうか。くりかえして言おう。日本共産党が老衰・自壊の道をたどりたくなければ、これ以外に選択肢はない。(最終加筆=2006年7月5日)






チャウシェスク問題で宮本顕治批判 

 
はじめに  
 1989年11月9日、ベルリンの壁が崩壊し、東欧諸国の民主化が急速に進んだ。「壁」崩壊から1ヵ月半後の12月25日、東欧共産主義独裁政権の牙城ルーマニアで独裁者チャウシェスクが銃殺された。日本共産党は、この独裁者チャウシェスク
と1971年の最初の宮本顕治代表団の訪問以来、20年近くにわたり、蜜月のような関係にあった。宮本顕治氏自身が、「赤旗祭り」の講演で直接ルーマニアの社会主義をほめ たたえたこともあった。ところが、チャウシェスク独裁の崩壊後、日本共産党はそれまでの兄弟的友好関係には口をつぶり、手のひらを返したようにチャウシェスク独裁批判を始めた。1977〜80年、赤旗ブカレスト特派員を務め、宮本氏の第2回ルーマニア訪問の随行取材もしたわたしとしては、日本共産党と宮本顕治氏のこうした無責任・無反省の態度は絶対に許せなかったし、わたしがやらなければだれもできないという思いから、『サンデー毎日』1990年3月4日号に、「私のルーマニア警告はこうして無視された」と題する手記を寄せ、宮本顕治氏と日本共産党を批判した。これにたいし共産党は、「赤旗」2月27日付で、「変節した『元特派員』の日本共産党攻撃」と題する緒方靖夫氏(当時、国際部長。現副委員長)署名の「反論」をのせ、低劣な中傷・人身攻撃をおこなった(緒方氏単独署名になっているが、実際は数人による集団執筆で、とくに人身攻撃の部分は、宮本顕治氏自身がつよく介入して加筆させたといわれる。いずれにせよ、宮本氏が全文チェックしたものであり、わたしは宮本論文だと思っている)。そこで、『月刊現代』90年5月号に「『宮本顕治議長よ誤りを認めよ』 歴史に立ち遅れた日本共産党を徹底批判する」と題して寄稿し、これに反論した。以下は、その「手記」と「寄稿」の全文である(見出し・前文・小見出し等はいずれも両誌の編集部によるもの)。時間の経過とともに、原文は図書館でも探しにくくなっているので、ここに掲載することにした。日本共産党の「上意下達」の官僚的体質、「共産党無謬論」はいまなお健在であり、私の批判はいまも有効だと思っている。


 ◆元赤旗ブカレスト特派員が宮本共産党を告発!
     「私のルーマニア警告はこうして無視された」    (『サンデー毎日』'90.3.4)

        「両被告は人間の尊厳および社会主義の諸原理とあい入れない行為を行い、ルーマニア国
       民の名において指導者と自称しながらその国民を破滅させる方向で、決定的に暴君として、犯
       罪者として行動しました」――『チャウシェスク軍事法廷記録』から

  総選挙の結果はご存じの通り。日本共産党は大いに苦戦した。共産党の苦戦については、東欧・ソ連で起きた歴史的激変が社会主義・共産主義のイメージダウンとなり、大きくマイナスに作用したとの見方がもっぱらだが、なかでも、20年来親密な友好関係にあったルーマニアの
チャウシェスク独裁政権崩壊にあたって同党指導部がとった姑息(こそく)な「辻つま合わせ」が、支持者をふくめ国民多数の理解と納得を得られなかったことが、重要な一つの要因としてあげられている。
  そこで、この際、問題をルーマニアにしぼり、「私自身も当事者の一人であった」(『赤旗』2月8日付)宮本顕治氏に尋ねたい。
  とりあえず以下の6点について宮本氏の明確な返答を聞きたいと思う。
  〈一〉日本共産党は、1971年、1978年、1987年の3回にわたり、チャウシェスクとの間で共同コミュニケ、共同宣言を結んでいる。前2回は宮本氏みずからが代表団長としてルーマニアを訪問して調印し、最後の1回はチャウシェスクと宮本氏のあいだの書簡のやりとりを中心に、両氏間の共同宣言という形で行われている。
  前2回については、宮本氏自身、「個人的にもぜひくるようにとくりかえし招待をうけて」(『日本共産党重要論文集G』(280n)、「言わば首脳会談のための訪問」(宮本顕治『激動の世界、日本の進路』152n)と語っている。3回目の共同宣言についてはいわずもがな、いずれも、宮本氏の強いイニシアチブと責任で行われたものである。その意味で、宮本氏の先に引用した「当事者の一人」という言い方は、一種の意図的な責任のがれ、すり替えではないか。
  〈二〉宮本氏は、『赤旗』に載った今年の新春インタビューのなかで、「そういう態度の変化(天安門事件の擁護、東欧の動きに軍事介入しようという態度などを指す――筆者)が……はっきりしたので、わが党は、過去はどうあろうと、き然とした正論にたって、すぐそれを公然と批判しました」と述べている。「世界の公理に……反する」(同インタビュー)ルーマニアの態度を批判したこと自体、いわば世間の常識からみて当たり前のこと(だからこそ「公理」といえる)で、なにもことさら「き然として行動する党」などと力んで自慢するにはあたらない。
  むしろ、ここで重要なのは、「過去はどうあろうと……」というさりげない一言で、19年間もチャウシェスク独裁体制と友好関係を続けてきたことについての責任を一括棚上げしてしまっていることである。
  宮本氏にとって、まさに「過去こそが問題」なのであり、問われているのは「宮本氏の過去」なのである。

 チャウシェスク独裁を美化!

  〈三〉ルーマニアにおけるチャウシェスク独裁体制・個人崇拝の確立は、概略、次のような過程を経ている。
  1967年12月 大国民議会で、先輩のキブ・ストイカをしりぞけてみずから国家評議会議長となり、党書記長との兼務により、党と国家の権力を掌握。
  1969年8月 第10回党大会で、それまで中央委員会の互選によっていた書記長を大会代議員による直接選挙制に改め、書記長を中央委員会より上位におき、党にたいする絶対的支配を確立。
  1973年6月 中央委員会総会で、妻のエレナ・チャウシェスクを政治執行委員会のメンバーに加え、現代世界であまり例をみない一族支配に乗り出す。
  1974年3月 大国民議会で、それまでの国家評議会議長からルーマニア社会主義共和国初代大統領となり、いっさいの国家大権を一身に集中、個人独裁体制を完成。
  ところで、宮本氏は、1971年の最初のルーマニア訪問のあと、1971年10月11日付の『赤旗』に載ったインタビューのなかで、「ルーマニア解放記念のパレードをみて、……あそこで示されたルーマニア共産党指導部にたいする大衆の支持の感情というものは自発的なものです。……党指導部にたいする熱烈な支持をあらわしていると感じました」と述べている。
  この発言は、チャウスシェスク個人崇拝・個人独裁体制にたいする支持、美化以外のなにものでもない。
  ルーマニア国民は、チャウシェスクの圧制下で6万人(『チャウシェスク軍事法廷記録』)ともいわれる人命の犠牲を払った。宮本氏は、みずからがチャウシェスク独裁を美化し、その強化に一役買ったことについて、ルーマニア国民にたいし良心の痛みをまったく感じないのだろうか。
  〈四〉宮本氏は、今年の新春インタビューのなかで、「当時対ソ追随が多いなかで、ルーマニアがチェコ侵略に反対という公正な立場にたったこと、……核兵器廃絶の問題でも、共産党間の誤った干渉に反対する立場でも、正当なことをいっていたから、われわれもそういう立場で交流してきたわけです」と述べている。
  どうやら宮本氏がここで強調したいのは、ルーマニアの国内体制を支持したわけではないということのようである。
  事実はどうか。
  1971年の共同コミュニケには、「日本共産党代表団は、ルーマニア共産党が……多面的に発展した社会主義を建設するうえで、注目すべき成果を上げていること、人民を国の政治生活に広範に参加させる社会主義的民主主義を拡大していること……を心から喜んだ」(『世界政治資料』71年9月下旬号)と述べられている。
  1978年の共同宣言では、「宮本顕治委員長は、ルーマニア共産党の指導下で……社会主義建設においてかちとられた大きな成果、社会主義の魅力の高まりにたいして、……心のこもった祝意を伝えた」(『日本共産党国際問題重要論文集J』462〜463n)と述べられている。
  それだけではない。1979年6月3日の第20回赤旗祭りでは、数万人の聴衆を前に記念演説を行い、このなかで、「私はルーマニアで見たのでありますが、日本の4DKぐらいの大きさの団地の部屋が200万円から300万円くらいの値段で勤労者に渡されている。私は、社会主義がこういう国民生活を守る点では、資本主義が太刀打ちできないすばらしい達成をしていることを、人類のために喜びたい」とまでほめあげている(宮本氏が訪ねた家は入居後15年のアパートで、新築の場合は、もちろん日本ほどではないが、宮本氏があげている例よりは高く、家計収入対比でもそれなりの負担になっている)。
  また、第2回訪問の際、筆者も随行したブカレストのデパート視察で、宮本氏は、見るもの見るもの、「安い」「安い」の連発だった。この「安い」は価格を公定レート(当時、1レイは約0円)で日本円に換算してのことで、労働者の月収との比較はまったく欠落している。当時、労働者の平均賃金は約2000レイ。これにたいし、一例をあげれば、筆者が実際に買った、肩がこるほど重い100%合繊の粗悪なブレザーが485レイ。平均賃金の四分の一に相当する。ルーマニアの勤労者にとって、決して生活は楽ではなかった。
  いずれにせよ、ここで明らかなのは、宮本氏が、対外政策だけでなく、国内体制にたいする肯定的評価、ひいては、この面でのチャウシェスク体制支持にまで深くコミットしていたという事実である。
  これでも、宮本氏は、チャウシェスクとの親密な付き合いは、対外政策の面での一致に限られていたと強弁するつもりだろうか。

 「本当に、あなたに責任ないか」
 
  〈五〉宮本氏は、2月8日付の『赤旗』に載った「共産主義運動の劇的な変化と日本共産党の確信」のなかで、 「ルーマニア側のガードは堅く、破局後暴露されたような、秘密警察とか内戦用地下道とかの生々しい事実を事前に知ることは不可能だった」と弁解している。
  かつてはすぐれた政治家として尊敬したことのある宮本氏から、まさかこんな子どもじみた弁解を聞かされるとは、 筆者も思ってもみなかった(『ル・モンド』紙によれば、フランス共産党の指導部も、下部党員からの責任追及にたいし「知らなかった」と答え、失笑を買っているようだが)。
  秘密警察にしろ、地下道にしろ、ルーマニア側が外部の人間に簡単にその存在を明かすはずがないではないか。地下道に至っては、ルーマニア側でもチャウシェスク周辺のほんの一握りの人間しか知らなかったことだろう。
  そんなことより重要なのは、アムネスティ・インターナショナルの年次報告で、1970年代以後、ルーマニアがつねに世界でも有数の人権抑圧国としてとりあげられ、チャウシェスク独裁体制の人権じゅうりんは世界周知の事実だったということである。
  たとえば、宮本氏が2回目にルーマニアを訪問した1978年の同年次報告は、次のように指摘している。
 「1977年3月の重要な人権アピールに署名した多くの人びとが拘留され、セクリターテ(治安警察、つまり、チャウシェスクの秘密警察のこと――筆者)によって計画的に殴打され、虐待された。同アピールはパウル・ゴマ(1977年後半に亡命した反体制作家)が発したもので、これには少なくとも200人が署名していた」
  これは、ほんの一例である。アムネスティ・インターナショナルの年次報告は、毎年、数ページを割いてルーマニアの人権じゅうりんをきびしく非難している。
  筆者自身、チャウシェスク政権の人権じゅうりんについて、警告の意味で何回か「情報」を送ったが、紙面に載らないのは別として、「なんでこんな余計なことをするのか」とつよく批判された経験がある。
  宮本氏はこうした事実をまったく知らなかったとでもいうのだろうか。それとも、チャウシェスク同志が認めない以上、アムネスティ・インターナショナルなど信用できないとでも考えていたのだろうか。
  〈六〉どんなすぐれた指導者でも、20年もの歳月のなかでは、言説や態度に矛盾をきたし、誤りを犯すことはありえないことではない。
  筆者が問題にしたいのは、そういう矛盾や誤りそれ自体ではない。そんなことは、複雑困難な革命闘争では、むしろ、あって当たり前なのである。レーニンは、必要な場合にはいつでも、「諸君、われわれは間違った」と率直に誤りを認めたことで知られている。
  問題は、あくまで白を黒といいくるめ、「宮本顕治無謬(むびゅう)」論、「日本共産党無謬」論を押しとおそうとするところにある。
  宮本氏は、いまなお、ルーマニア問題でまったく誤りを犯さなかったといい張るのだろうか。それならそれでよい。 日本共産党は、あなたの「名誉」とともに衰退の道をたどるしかないだけのことである。


元「赤旗」ルーマニア特派員の「爆弾寄稿」

 「宮本顕治議長よ 誤りを認めよ」

   歴史に立ち遅れた日本共産党を徹底批判する        (『月刊現代』 ’90年5月号)

           低劣な人身攻撃、言論テロ、批判の封殺――「チャウシェス
          クとの共同声明」の責任もとらず、宮本氏の名誉擁護に異常
          な努力を払う共産党は、党員、国民を愚弄していないか

 特異な「民主的マナー」

 筆者は『サンデー毎日』3月4日号に手記を寄せ、ルーマニア問題での共産党中央委員会議長、宮本顕治氏の責任を問うた。これに対し、宮本氏は、「赤旗」2月27日付の「変節した『元特派員』の日本共産党攻撃」と題した緒方靖夫氏(国際部長)の証明記事で、低劣な人身攻撃で始まる「反論」をのせた(「反論」の編集部による要約は本文中に随所挿入している)。
 今回、この文章を書くにあたり、何回か「赤旗」の「反論」(以下、「反論」と略す)を読み返してみた。いろいろごちゃごちゃいっているが、結局、その趣旨は、@天安門事件まで、チャウシェスクは支持でき、ルーマニアァは人権蹂躙国ではなかったAだから、それ以前に結んだ声明・宣言は、当時も今も重要な意義をもつBしたがって、宮本顕治氏はルーマニア問題で完全に正しく、まったく誤りを犯さなかった、という粗雑な三段論法に尽きる。
 選挙で500万の得票を得ている野党第3党の最高指導者が、ほんとにこんなことでよいのだろうか。
 そこで、再度、宮本氏は正しかったかについて事実を明らかにし、この問題をめぐるその政治責任を問いたい。
 まず第一にいっておきたいが、一市民として宮本氏への批判を世に問うたのに対し、元党員であったというだけで、「反論」のなかで筆者が名前を呼び捨てにされるいわれはまったくない。かつて、ある演説のなかで、宮本氏は「共産党は、……除名された連中を敬称で呼ぶ習慣はない。それが共産党の伝統的な民主的なマナー」「(そんな連中まで)立派な市民……扱いはしない。(そうすることが)日本の社会発展に有益なんだ」といったことがある。
 今回の「反論」を読んでまず感じたことは、共産党が政権党になっていなくてよかったということである。筆者は1984年、日本共産党の体質が「人間の顔をした社会主義」の理想に合致しないという理由で離党を通告し、逆に不当に除籍されたが、規律違反やスパイ容疑で除名されたことはない(共産党の規約でも除籍と除名は違う)。もし共産党が政権党だったら、筆者はいまごろ、かつてのソ連・東欧の異論者たちと同様、国外亡命の道を選ぶよりほかなかったろう。
 ところで、今の共産党にはもう一つ特異な「民主的マナー」がある。必ず人身攻撃で反論するという「伝統的習慣」である。これまた、かつてスターリン主義のソ連・東欧で異論者に同性愛者(ホモセクシュアル)∞寄生生活者(パラシット)≠ネどというレッテルを貼り、社会的に封殺した手口と同じである。
 要するに、「罪状」を高札に書き連ねて「罪人」の首を街角にさらす、あの中世的さらし首∞見せしめ≠フ思想である。こんな批判をすればお前らもこうなるぞという恫喝である。
 万年少数党に甘んずるつもりなら別だが、いつかは政権を≠ニ本気で考えているなら、こんな世間では通用しない「民主的マナー」は早く捨てたほうがよい。

 これでも「自由と民主主義」か

 宮本氏は、2月14日、総選挙戦のさなかに出したアピールのなかで、共産党が1979年に発表した「自由と民主主義の宣言」(以下、「宣言」と略す)に関し、ルーマニア共産党機関紙「スクンテイア」の後掲紙「アデバル」の幹部が「現在の東欧諸国の直面する諸問題を基本的に解明したもの……先駆的意義をもつ」と語ったことを材料に、「わが党はこの『宣言』を日本での展望として発表したもので、世界のモデルとしたものではないが、東欧の人々がこれを、そのように受けとっていることは興味ぶかい」と、例によって「先見性」「先駆性」を自画自賛している。
 ここで、「興味ぶかい」のは、このアピールの載った同じ15日付「赤旗」外信面に、ブカレスト13日発特派員電で「先駆的意義をもつ『自由と民主主義の宣言』 ルーマニア紙副編集長かたる」という記事が同時掲載されるていること。宮本氏は、これをアピールの裏づけとしたつもりだろうが、世間では、こういうのは「やらせ」としかいわない。
「宣言」が掲げている複数政党制、表現の自由、思想・信条の自由、その他の自由については、当然ながら、筆者をふくめだれでも賛成である。むしろ、このような自明のことをわざわざ「宣言」として出さなければならないこと自体、従来の共産主義運動がいかに歴史に立ち遅れていたかの証明だとさえいえる。
 問題は、宮本氏の率いる今の共産党がこの「宣言」をいつ実行するのかということである。日本での将来の「展望」では困るのである。少数野党に過ぎない現状ですら、元党員が宮本氏を批判したからといって、言論テロにもひとしい人身攻撃で批判の封殺を試みるような政党が政権を取ったら、日本はいったいどうなるだろうか。それとも、今は「市民扱い」しないが、政権をとったら翌日から市民にしてくれるとでもいうのだろうか。そんなことを信用する人はだれもいない。

 破廉恥な人身攻撃

 降りかかった火の粉は振り払わなければならない。今後だれに対しても二度とこのような破廉恥な手口を使えないようにもしなければならない。その意味で、若干の事実をのべておきたい。私事にわたり恐縮だが、我慢してつきあって欲しい。
        
 巌名(いわな)は(『サンデー毎日』の記事で=編集部注)いかにも自分が先見性ともった大記者であるかのように書いていますが、実は在任中の1978年8月、中国の華国鋒(中国共産党主席=当時)がブカレストを訪問することを知りながら、日本の各社の特派員が取材に駆けつけたのに、唯一の常駐日本人記者であった彼がその期間にささいな私用で一時帰国して取材を放棄したりするなど、万事自分のことが先で、日本共産党の専従活動家としてはもちろん、新聞記者という社会的な使命の意味でも、落第人物だったことを、まず指摘しておきます。

「反論」はまず、華国鋒訪問の取材に関し、筆者が「ささいな私用で」勝手に任務放棄したかのように攻撃している。しかし、事実は次のとおりである。
 @筆者は、1976年夏、ブカレストへの赴任に際し、海外出張の手続きをした上、当時住んでいた住宅公団賃貸アパートに「赤旗」記者(その後、ワシントン特派員)を留守番のため入居させていた。本人が更新手続きをしなければ満2年以後は不正入居となるため、78年夏の一時帰国を外信部に申請。3月27日、「宮本代表団のルーマニア訪問後、ルーマニア側費用負担ならOK」との回答を得る。
 Aバカンス・シーズンで航空便の予約は困難をきわめたが、ルーマニア側の尽力でやっと8月16日発南回りの予約を確保。
 Bこの頃、一時帰国が近いことからアスピリンでごまかしていた歯痛がひどくなり、アスピリンの過度服用で胃も痛み出した(一時帰国後、歯根膜炎、多発性胃潰瘍と診断され、約1ヵ月半、治療。胃潰瘍は、数年後に再発、胃を切除)。
 C帰国便確保の直後、華国鋒の訪問が発表され、8月3日、チャウシェスクが党と国家の活動者会議で、国際問題について説明。従来の方針の再確認で、華国法訪問に影響されないことを示唆(この旨コメントした記事を送る)。
 D8月7日、一時帰国の最終スケジュールを外信部に知らせ、承認を受ける。
 この際、外信部長から、国際部の要請として、約1ヵ月前にルーマニア訪問から帰った宮本氏の帰国土産が足りなくなったので、ザンフィル(世界的なパンフルート奏者)のレコードを20枚ほど買ってきて欲しいと依頼があった。急ぐかと聞くと、「お土産だから、早いに越したことはない」との返事。 E8月16日、華国鋒到着の記事を送信した後、ブカレストを発つ。
 F一時帰国後数日して、ある全国紙のブカレスト臨時特派員が「華国鋒・チャウシェスクが共同声明」と誤報。宮本氏が「共同声明など出るはずがない。現地に聞け」といいだし、筆者のブカレスト不在が問題とされた。
 G宮本氏のお土産の件を除き、以上の経過と反省を文書で提出。それ以後別段の追及はなかった。その後、主治医が英文診断書を持参しブカレストで治療をつづけるとの条件で筆者の帰任を許可し、国際部(つまり、宮本氏)も認めたので、10月6日、ブカレストへ戻る。その際、宮本氏がルーマニアを訪問したおり、ボディー・ガードを務めた治安警察軍少佐への宮本氏からのお礼の品物(柔道着)を託された。
 もちろん、以上の事実は、当時の一部関係者を除き、一般の党員も読者も知らない。事実を知らせず、一方的にゆがめるこうした手口が、宮本氏のよく口にする「フェアな」やり方といえるだろうか。「反論」全文をのせた「赤旗評論特集版」にも、いくつか低劣な人身攻撃がみられるが、手口は同工異曲。ばかばかしくて反駁する気にもならない。

 使えなかった「目、耳、足、筆」
     
 「元特派員」の肩書きを使って巌名がもっとも売り込もうとしているのは、 見出しにもある「私のルーマニア警告は無視された」一件なるものです。彼は、いかにも、当時の自分だけが今日の事態を予知していたかのような大ウソを、平気で書いています。
 赤旗編集局には、巌名が当時連絡としてブカレストから送ってきた「パリ発AFP(フランス通信)」記事の和訳があります。
 これに添えられた本人の連絡文には「この数日間に、ルーマニアにおける人権問題にふれたAFPの報道3通の全文翻訳(見出しもAFPによる)を手便に託して送ります。もちろん、内容の真偽、確度については確認の方法がありません」とあります。 彼自身なんの確信もないこの種の、未確認情報の記事の転送を、今になって「警告」だった、故意に無視されたと、勝手に作り上げているだけです。
 彼が「つよく批判された」のは、どこでも入手できるパリ発の外国通信の翻訳をわざわざ送ってくるよりも、自分の目、耳、足で仕事すべきだという、特派員としての仕事の仕方だったのです。

「反論」は、筆者が警告の意味でルーマニアの人権問題についてのAFP電を訳し手便に託したことについて、「目、耳、足」で仕事しないやり方を批判したのだと中傷している。
 開き直りもいいところである。その国の指導者が「わが国に人権問題など存在しない」と公言しているなかで、ブカレストを始め、当時、社会主義国に派遣されていた「赤旗」特派員が、生活費、通信費などの財政問題を含め、「目、耳、足」を使って自主的に取材できる状態にあったかどうか、筆者の口から説明するまでもなく、宮本氏のほうがよく知っているはずではないか。
 このAFP電は、あるルーマニアの教師がアムネスティ・インターナショナル(以下、アムネスティと略す)に人権侵害を訴えたため「国家機密」漏洩罪で逮捕されたとことなどを扱った記事である。電話やテレックス、郵便などで送るのは「危険」なため、信頼のおける旅行者に託したものである。
 後述するように、当時、社会主義国にいる各「赤旗」特派員は、宮本氏の指示のもとに、「社会主義の優位性について攻勢的な宣伝を書け」と命じられていた。筆者が「どこでも入手できるパリ発の外国通信をわざわざブカレストから(原文は傍点つき)送ったのは、こうした方針に対する無言の抵抗であり、警告であった。
「内容の真偽、確度については確認の方法がありません(原文は傍点つき)」と書き送ったのも、ほめること以外に「目、耳、足」どころか「筆」も使えない「赤旗」特派員の境遇を皮肉ったものである。それとも、宮本氏は、今になって、当時、筆者が人権問題などルーマニアのひどい現実を自主的に取材することを期待していたとでもいいだすのだろうか。

 王様は裸だった?

「反論」は、筆者が「自分が先見性をもった大記者であるかのように」書き、「当時の自分だけが今日の事態を予知していたかのような大ウソを平気で書いて」いると、口汚くののしっている。
 筆者は、1972年、ハノイ在任中、同僚の「赤旗」特派員とともに、日本ジャーナリスト会議の奨励賞を受賞したことがあるが、別に自分を「大記者」などとは思っていない。土台、チャウシェスク独裁政権がどんなにひどいものか、こんな反人民的な政権がいつまでもつづくはずがないということは、当時あの国に住んだ人ならだれでも感じていたことで、格別の能力や「先見性」など必要としない。
 ブカレスト在任中の日記の78年1月23日付に、筆者は、「英雄のなかの英雄」「天才政治家」などの賛辞であふれたチャウシェスク生誕60周年記念記録映画をみせられた感想として、「個人崇拝、窮まれり」と記している。当時のルーマニア共産党機関紙「スクンテイア」は、全ページにチャウシェスクの写真を大きく掲げ、こうした賛辞を連ねていた。
 重要なことは、こうした「スクンテイア」紙は東京にも送られており、日本共産党は、異常なチャウシェスク個人崇拝を容易に知りうる立場にあったことである。
 それだけではない。その半年後の宮本氏の2回目のルーマニア訪問に副団長格で同行した上田浩一郎副委員長は、他の代表団員も何人か同席した代表団宿舎での雑談で、「この国はひでえんだな。女房をナンバーツーにしてんだろう」と筆者に語っている(事実、この頃、チャウシェスクは妻のエレナ、息子のニクを始め、一族縁者30数人を党と国家の要職につけ、同族支配体制を固めており、党幹部の人事は妻のエレナがにぎっていた)。
 それ以前の77年8月、村上弘氏(当時、副委員長)がルーマニアを訪問した際にも、学生らブカレスト在住の党員数人とともに現地の実情を話し、村上氏は「よく分かりました。やはり、こういう話は代表団の公式会談だけでは分かりませんね」と納得してくれている。
 筆者が疑問に思うのは、代表団宿舎で雑談に加わっていたあの幹部諸氏や村上氏は、なぜ今日に至るまで宮本氏に率直に自分の意見をいえなかったのかということである。なぜ、王様を裸にしておいたのかということである。
 筆者は、ベトナム、ルーマニア駐在の体験から、つねづね、「人間の顔をした社会主義」実現のためには、上意下達の軍隊的、官僚的な党ではなく、人間的で、民主的な党でなければならないと考えている。政治路線の転換と民主集中制の廃止ないしは大幅手直しが並行的におこなわれたソ連・東欧の現実も、このことを証明している。
 宮本氏は、今年の新春インタビューで、「民主集中制ということは……集中民主制でもあります。みんなの意見を最大限にくみあげ、それをまとめて……同じ方向をかかげることは政党政治として当然」と大見えを切っている。だが、側近の指導的幹部でさえ宮本氏に率直にものがいえなかったとすれば、今の共産党に「民主」はなく「集中」(つまり、軍隊的・官僚的な上意下達)しかないということになりはしないか。

 アムネスティを侮辱
     
 巌名は、なんとかして自分の言い分を根拠づけるために、「アムネスティ・インタナショナルの年次報告で、1970年代以後、ルーマニアがつねに世界でも有数の人権抑圧国としてとりあげられ、チャウシェスク独裁体制の人権じゅうりんは世界周知の事実だった」から、71年、78年に、宮本議長がルーマニアを訪問したのは、チャウシェスク独裁体制を支援するものとなったのであり、その党と関係をもつことは、誤りであったといっています。
 そのアムネスティがもっとも重視して報告書を発行しているのは拷問についてですが、73年12月のパリでの国際会議に提出された報告は、ルーマニアについて「64年以前には、肉体的、精神的な拷問がおこなわれ、拷問の結果多くの人々が死んだことが明らかにされた。しかしその後、アムネスティ・インタナショナルはルーマニアから拷問に関するこれ以上の申し立ては受けとっていない」(「アムネスティ・インタナショナル拷問報告書」(1974年発行)とあります。チャウシェスクが書記長になったのは65年です。年次報告には、80年代に入ってルーマニアの記述がありますが、これは、訴えがあれば記載されるというもので、ほとんどの社会主義国、発展途上国、さらにアメリカ、フランス、イギリス、日本をふくむかなりの数の資本主義国からの個々の訴えが取りあげられているものです。ここでルーマニアがとりあげられたことをもって、即人権侵害の国と断定することができないことは明白です。
 どうみても、巌名が金科玉条とするアムネスティの資料にもとづいても、70年代以来、「チャウシェスク独裁体制の人権じゅうりんは世界周知の事実」ということにはならないのです。彼自身が、1979年、特派員時代に、確認すらできないと外電の翻訳で送っていたルーマニアでの「人権問題」を、日本共産党が71年、78年当時非難しなかったからけしからん式の断定は、まさに時間を超越した空論といわねばなりません。


 周知のように、アムネスティは、不偏不党、思想・信条にとらわれないことを柱に、世界的に人権擁護のため活動している組織である。ソ連・東欧のかつての異論者たちの心の支えとなり、間接的に、今日のソ連・東欧の民主化に貢献をしてきた。
 ところが、「反論」は、いきりたつあまり筆をすべらし、以下の3点でアムネスティの活動を歪曲、侮辱している。
「反論」は、アムネスティ年次報告が、「80年代に入って」初めて、ルーマニアをとりあげたかのように書いている。だが、現に、筆者の手元には1974年から89年までの英文年次報告のルーマニア部分のコピーがルある。すべて、2〜3ページを割き、人権侵害を詳細に報告している。このような公刊物の存在を共産党は知らないのであろうか。それとも、知りながら、故意に党員・読者をだましているのだろうか。
「反論」は、アメリカ、フランス、イギリス、日本さえ載っているのだから、ルーマニアを人権侵害国とは断定できないといっている。ところが、日本、アメリカについては死刑が廃止されていないこと、フランスについては宗教上の理由からの「良心的兵役拒否」が認められていないこと、イギリスについては北アイルランド紛争で治安部隊による武器使用がおこなわれたことなどが報告されているだけである。あのルーマニアと同列に扱うことは到底許されない。
 アムネスティは1983年、「ルーマニア――80年代における人権侵害」と題する、全文27ぺーの英文パンフレットを発行している。このようなパンフレットがわざわざ発行された国は、過去にさかのぼっても、アルバニア、ケニア、バングラデシュなど数ヵ国に過ぎない。パンフレットの裏表紙には「ルーマニア当局は、国際的に承認された人権、とりわけ、表現の自由、外国移住の自由、拷問、その他、犯罪的で非人間的ないしは尊厳を傷つける取り扱いを受けない自由を、一貫して侵害してきた」とのべ、明確に人権侵害国として告発している。
 宮本氏は、これでもなおかつ、ルーマニアを人権侵害国と「断定することができない」というのか。いまなお、盟友<`ャウシェスクの名誉を擁護してやるつもりなのだろうか。

 いつから「暴君」になったのか?
    
 時間をとびこえた「辻つま合わせ」
 宮本議長は、71年、78年に他の国とともにルーマニアを訪問し、共同文書を発表しました。また、87年には、両党首脳が直接の会談をすることなく、共同宣言をまとめました。これらは、世界政治と世界の共産主義運動にとって、当時も今日も重要な意義をもつものです。
 巌名は、こうしたルーマニア共産党との関係が、「チャウシェスク独裁を美化」しているというのです。それを「証明」しようと、巌名は、71年の訪問のさいの共同コミュニケから引用し、また、宮本議長がインタビューでのべた感想をもちだしています。
 71年というのは、68年のチェコ事件にあたってルーマニアの党が、チェコ侵略と干渉に反対してから3年後です。国内には、自主独立の路線を支持する状況がみられました。しかも宮本議長ののべたことのなかに、チャウシェスク個人の名はいっさいないにもかかわらず、巌名は、71年のこの発言をもって、「個人崇拝・個人独裁体制にたいする支持、美化以外のなにものでもない」と断定するこじつけをおこなっています。
 巌名は、宮本議長の78年のルーマニア訪問のさいにも、チャウシェスク政権の国内体制を支持したとして、 このときの共同宣言を引用しています。チャウシェスク政権が89年12月に崩壊したからといって、1965年に同政権が成立して以後、一貫して反人民的な政権であったと断定し、チャウシェスク政権下の国内問題はいっさい否定的に扱うべきだなどとするのは、事実にそってことを論じる者のやることデはありません。
 日本共産党は、チャウシェスク政権が昨年6月の天安門事件のさいの武力弾圧を支持したことを重視し、金子書記局長らを派遣して誤りを率直に指摘しました。さらには、8月のポーランドでの「連帯」主導の政府の成立を阻止するために、ワルシャワ条約機構の介入をよびかけたことを重大視し、批判的見地を「赤旗」で明らかにしました。ルーマニアがこうした動機からよびかけた「社会主義の防衛」のための諸党の国際会議の提案にたいしては、宮本議長が書簡によって、きっぱりとした反対の立場を表明しました。
   こうした事実にもとづき、宮本議長は新春インタビューで、「わが党は、過去はどうであろうと、き然とした正論にたって、すぐそれを公然と批判しました」のべました。巌名は   、「19年間もチャウシェスク独裁体制と友好関係を続けてきた」などと、チャウシェスク政権の全期間を独裁と決めつけたうえで、日本共産党の「責任」を追及したつもりでいます。

  チャウシェスクは、党書記長に選ばれる前の年の1964年、ブカレストの党アカデミーでの講演で、ソ連共産党との関係悪化はスターリンの遺産との断絶を意味しないと説明し、「学生諸君が、マルクス・レーニン主義の基本文献として、スターリンの『レーニン主義の諸問題』の学習をつづけるよう、率直に提唱し呼びかける」と強調している。チャウシェスクは、根っからのスターリン主義者だった。このような人物が党と国家の権力を独占したらどうなるか。結果は、ルーマニアの悲劇が雄弁に物語っている。
「反論」は、ごちゃごちゃ書き並べながら、「チャウシェスク政権が89年12月に崩壊したからといって、……チャウシェスク政権下の国内問題はいっさい否定的に扱うべきだなどとする」のは、「時間をとびこえた『辻つま合わせ』だと非難している。
 ところで、つい最近、「赤旗」3月4日付で興味深い記事を読んだ。昨年12月にチャウシェスク夫妻を裁いた裁判長が「神経衰弱」で自殺したという、ブカレスト特派員電による報道である。興味深かったのはその見出しである。なんと、「暴君裁いた裁判長が自殺」となっているではないか!
 そこで、逆に質問したい。天安門事件以後「変質した」というのは以前から「赤旗」でも読んだことがあるが、宮本氏は、いったい、チャウシェスクがいつから暴君になり、いつまでは暴君でなかったと考えているのか。天安門事件以前なのか以後なのか、ルーマニア国民にたいする責任上からも、はっきりしてもらいたいものである。

 ルーマニア国民を愚弄
    

 巌名は最初に、 日本共産党のルーマニアとの共同文書の発表について、「宮本氏のつよいイニシアチブと責任でおこなわれたものである」のに、ルーマニア問題での「当事者の一人」というのは、「一種の意図的な責任のがれ、すり替えではないか」といっています。日本共産党は、集団指導の党であり、党の最高責任者でも「当事者の一人」というのが当然です。
 巌名は、1987年の共同宣言を攻撃していますが、日本共産党が事実上イニシアチブをとったこの文書の意義を、宮本議長は、「世界情勢と世界の共産主義運動の現状を憂慮してまとめられたこの共同宣言は、わが党のイニシアティブが中心になったもので、その主題・論点いずれも、歴史的意義をもちうるものである」と堂々とのべています。
  反共に転落したものの姿
  巌名は、最後に「問題は、あくまで白を黒といいくるめ『宮本顕治無謬』論、『日本共産党無謬』を押しとおそうとするところにある」と断じて、日本共産党は、「衰退の道をたどるしかないだけのことである」とのべています。いうまでもなく、日本共産党は科学的社会主義の党であり、「無謬」論に立つものでもなく、歴史を書き替えるようなことはありません。巌名の今回の売文が示しているのは、転落者が反共キャンペーンに加担するにいたったあわれな姿だけです。


 筆者の手記と「赤旗」の「反論」を読んで、ある法律研究者は次のように語った。
「山口組が警察と喧嘩していた。共産党は山口組がやくざ組織だとは知らずに、山口組と手を結んで警察に反対する共同声明を出した。後になって、山口組がやくざ組織だとわかったが、共産党は、不当な警察に反対する正しい内容の共同声明だから当時も今も重要な意義をもっている、といいはっている」
 という感想である。
「反論」は、宮本氏がチャウシェスクとのあいだで結んだ共同声明・宣言は、先に引用した要約に示されているように、「当時も今日も重要な意義をもつものです」と強弁している。
 ほんとにそれでいいのか。党員・読者、ルーマニア国民を愚弄するのもいい加減にしてもらいたい。この論法でいけば、ヒトラーとの共同声明さえ、状況が必要とし、内容さえよければ、今日でも意義があるということになってしまう。
 共産党は、なぜ宮本氏の名誉の擁護にかくも異常な努力を払うのか。共産党の宮本氏なのか、それとも宮本氏の共産党なのか。
 筆者は、なにも宮本氏の全生涯を否定するつもりはない。過去の一定の功績を認めるにもやぶさかではない。ただ、ルーマニア問題での「宮本顕治無謬」論だけは、絶対に許せない。間接的にしろ、ルーマニアでのチャウシェスク独裁を支え、結果として、ルーマニア国民の「魂を鉄鎖でつなぐ」(チャウシェスク軍事法廷全記録)ことに一役買い、ルーマニア国民に血の犠牲を強いたからである。
「この子が大きくなる頃には、ルーマニアもいい国になってるだろうか」とブカレストで筆者に問うた、生後数ヵ月の息子をもつあるルーマニア人の父親の切ないことばが、今も耳の底に鳴りひびいているからである。

  宮本氏の「最高指示」

 現在ブカレストにいる「赤旗」特派員志賀重仁氏は、筆者が在任中、留学生として送られてきた青年だが、筆者は、ある日、かれをブカレスト市内のヘラストラウ湖公園に連れていき、盗聴のおそれのない青空の下で、「こんな国をつくるのだったら、人間一生を賭けるに値しない。わたしがルーマニアに生まれていたら、今ごろは、おそらく監獄に入っているだろう。少なくとも、共産党の幹部にはなっていないよ」と語ったことがある。
 ところで、1976年9月、筆者が特派員としてブカレストに赴任する数日前、当時副委員長で国際委員会責任者だった故西沢富夫氏の部屋に呼ばれた。西沢氏からは、赴任の心得として、「君も長いことベトナムにいってたから分かっているだろうが、今の社会主義にはいろいろ問題がある。だから、決して美化しないように、リアルにみて欲しい」といわれた。筆者も、これには大賛成だった。
 ところが、1978年、宮本氏がルーマニアを訪問し、「手記」でも書いたような美化がおこなわれてから、方針が大きく変わった。とくに80年衆参同日選挙後、「反共陣営が反社会主義宣伝をやり、社会主義のイメージ・ダウンを図ったため、選挙で後退した。今後は、社会主義の優位性について攻勢的な宣伝をやる。各特派員は、至急、任地の社会主義の優位性について企画を送れ。これは『最高指示』である」との指令が外信部から出された。
「最高指示」とは、いうまでもなく宮本氏の指示である。筆者は、このとき、帰国したら「赤旗」を辞めようと心に決めた。こんな国を美化させるようではどうしようもないと痛感したからだ(このことは、帰国前に、複数の党員にはっきり伝えてある。いつか、その党員たちの氏名やそのときの会話も明かせるときがくると思っている)。
 筆者は、1982年、まだ共産党員だった頃、イギリスの政治学者マイケル・ウォーラー著『民主主義的中央集権制――歴史的評釈』(青木書店)を翻訳紹介したが、その「あごがき」の末尾に、「既存の社会主義国で自由を拘束されている異論者(ディシデント)たちに心からの連帯を表明しつつ」と書いた。筆者の願いは、7年後に東欧・ソ連の激動となって実を結んだ。
 昨年10月、改革に抵抗するホーネッカー時代に東独を訪問したゴルバチョフは、「遅れて来る者は、命であがなうことになる」と批判した。今回の宮本顕治氏に対する筆者の批判が実を結ぶにはおそらくそんなに長い年月は要しないと確信しているが、後は、すべてを第三者の積極的な討論参加と歴史の審判にゆだねることとして、この筆を置きたい。
 おわりに
 わたしのこの反論にたいして宮本顕治氏側からの再反論はなかった。たしかに、『月刊現代』が発行されて数日後、大沼作人氏署名のわたしにたいする攻撃文が「赤旗」に掲載されたが、時間的にみても、内容から見ても、わたしの反論を読んでから書かれたものではなく、それ以前に書かされ、宮本氏の検閲を受けたものであることは明らかだった。『月刊現代』編集部の担当者も「なにも新しいことはありませんね。これでは再反論に値しない」と言っていた。
 この大沼作人氏は、わたしのブカレスト特派員の前任者で、帰任後、ふたたび外信部長を務め、わたしの「一時帰国最終スケジュール」にゴーサインを出した当の責任者である。大沼論文の内容はほとんど記憶にないが、自分がゴーサインを出した事実にふれていなかったことだけは確かである。
 緒方靖夫氏についても、一言しておきたい。緒方氏は、ルーマニア語修得のためブカレストに留学生として党から派遣され、わたしがブカレストに赴任するのと入れ違いに帰国した人物である。留学生という身分上、わたしよりも自由にルーマニア人に接触する機会があり、チャウシェスク個人崇拝やルーマニア社会主義の実情について、わたし以上に知っていたはずの人物である。わたしが反論のなかで「チャウシェスク独裁政権がどんなにひどいものか、こんな反人民的な政権がいつまでもつづくはずがないということは、当時あの国に住んだ人ならだれでも感じていたことで、格別の能力や『先見性』など必要としない」と書いたのは、緒方氏を念頭に置いてのことだった。 また、「重要なことは、こうした『スクンテイア』紙は東京にも送られており、日本共産党は、異常なチャウシェスク個人崇拝を容易に知りうる立場にあったことである」と指摘したのも、ルーマニア語の専門家として、国際部の机の上で毎日 「スクンテイア」紙を読むことのできた緒方氏の責任を問うためである。
 緒方氏が、共産主義者としての良心にかけて、帰国後、ルーマニアの実情を党に報告し、「スクンテイア」紙の異常なチャウシェスク個人崇拝について指導部の注意を喚起してさえいれば、日本共産党は、あそこまでいくまでに、もっと早く対ルーマニア政策を是正できたはずである。しかし、宮本氏の忠実な「お小姓」である緒方氏には、宮本氏がルーマニアにべたぼれしている以上、それは不可能だったのだろう。というよりも、そんなことに頭が働かないのが、党エリート官僚の特性といえよう。いずれにせよ、緒方氏にはわたしを批判する資格が根本的に欠けていたことをあらためて指摘しておきたい。
 最後に、わたしの反論が、当時の党内でかなりの反響を呼び、その後開かれた第19回党大会に向けての『赤旗評論版 大会議案についての意見特集』には、党員でもないわたしの意見を支持する投稿が数十通寄せられた。わたしを批判する投稿のなかにも、わたしが反論のなかで触れたマナーを踏まえ、「巌名氏」と敬称つきのものもあった。
 そして、より重要なことは、次の第20回党大会で、党規約「前文」第3項の民主集中制に触れた部分に、 「討論は、文書であれ口頭であれ、事実と道理にもとづくべきであり、誹謗、中傷に類するものは党内討議とは無縁である」という一句が挿入され、これ以後、党大会に向けての「赤旗評論版」特集では、党中央にたいする批判的言論は完全に姿を消した。いうまでもなく、「誹謗、中傷に類するもの」であるかどうか判断するのは、時の指導部である。これでは現在の多数派指導部は永久政権を保障されたようなものであり、党内民主主義のかけらもないといわざるをえない。現に、わたしが『週刊金曜日』編集部にいたころ、某国立大学の著名な学者が、わたしの宮本顕治批判にも触れ、党大会へ向けて意見書を投稿したところ、「党を誹謗、中傷するもの」との理由で掲載を拒否された事実がある。
 いま、共産党は「死滅寸前」の状態にある。下部党員のなかには党中央にたいする不満や批判がうっ積している。そんな時期だからこそ、党員の自由な意見を解放し、党の根本的再生を図るべきではないか。しかし、「そんなことをすれば自由分散主義になり、党は壊滅してしまう」というのが現指導部の危ぐするところであろう。だが、そういう党の在り方、民主集中制の在り方こそ、こんにちの党の危機を生んだ根本原因であることを知るべきである。
 ともあれ、宮本顕治氏側からの再反論はなかった。わたし自身は、いまでも宮本顕治氏側が誤っており、わたしの方が正しかったと思っている。 (2006年8月19日)