<<学院創立・幼稚園のあゆみ>>
大正8年、創立者飯田志ようが名古屋市中村区則武に飯田裁縫塾を開設したのが本学院の礎である。
当時の子女は、裁縫、料理、茶道、華道など家政全般を身につけることが、最上の教育であった。
その後、中京実践女学校と名称変更し、学校としての第一歩を踏み出す。しかし、昭和に入り、太平洋戦争の勃発など物資の配給制度で生活が厳しさを増していくなかでも堅実に学校経営を行っていった。空襲で、校舎が焼け出されたため中村区中島町に仮校舎を置く。
昭和24年、学制改革で飯田女学院と校名変更する。
昭和29年、かねてから用地として、購入してあった現在地の向島町5丁目に校舎を再建し、職業教育、女子教育に力を注ぐこととなる。
また、志ようは、生徒と共に赤い羽根共同募金活動や茶華道をとおして、さらに自身も地域の社会貢献活動にも力を注ぎ学校教育発展の功績で、昭和48年、勲五等瑞宝章を授かる。
昭和31年、校地の南側に、幼稚園の木造校舎を建て、飯田幼稚園を開園し、園長に飯田重忠が就任する。
当時は、年長、年中組の2クラス編成で、幼児教育にあたることとなる。
その後、昭和42年、学校法人 飯田女学院として、愛知県の認可を受け、飯田女学院高等実践学校、飯田幼稚園として、学校組織の基盤が確立される。
また、幼稚園は定員増加、年少組を加え3クラス編成とする。現在では、学院創立90周年を迎え幼稚園は開園以来
50余年となり多くの卒園生を送り出しています。
平成26年2月新園舎竣工。平成28年度より園バス運行開始
創立者 飯田志よう
*名古屋帯について*
この帯は、創立者飯田志ようが大正初期、椙山学園在学中、中部5県下の工芸展覧会が商工館で開催された時、この帯を考案作成し出品して入賞した。合理化された実用性によって、当時は文化帯の名で広く普及し、その後名古屋帯と名を改め、全国に名が知れ渡りました。