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「勾玉」誕生の頃
『勾玉』第一巻第一号の発行は、昭和二十三年一月三十一日であった。いわゆる俳誌創刊という気負ったものではなかった。主宰川田十雨が起こしたというより、十雨の指導を仰ぐ初学者たちの熱心なつきあげから、稽古会の会報として生まれたのであった。
この『勾玉』発行に奔走したのは、門谷朱実であった。戦後二十年九月に復活した神母田(いげた)句会も彼の奔走で句会が開かれた。やがて二十二年朱実は小高坂に転住したその契機に、赤石町の十雨の空き家で勾玉会と称する稽古会が開かれた。その後、神母田句会、勾玉会の方式で『勾玉』は地方の同好の士に押しひろげることになった。主宰川田十雨は「稽古会は新人の修練道場であって、ホトトギス、龍巻等に進出すべき新人の養成機関として役立つことを念頭とする。私も童心に立ち戻って、諸君と共に勉強する」と一号で述べた。
その一号はB6判のガリ版刷りの16ページで、旭会、凪会、山韮会などの各稽古会の句報、十雨雑詠選、勾玉集が載り、薑村、左人、元川、長邦、和子、朱実、恩地春洋、長崎守などの名が連なっていた。二号から活版印刷となり、扉に「勾玉と龍巻」と題して、十雨が『勾玉』の意義を述べた。
「……勾玉は普通の俳句雑誌とは行方を異にして、各地方地方のブロックの俳句会を育成発達せしめることを主眼としている………五人以上の会員のあるところに稽古会を設ける仕組みになっており、此の会に指導の手をのべることが勾玉の発足の意義をなすものである」
また第三号に十雨は「勾玉の使命」という文章を載せ「勾玉の使命は例へて云へば、勾玉駅からホトトギス駅への急行電車の敷設にある。恵まれざる人々をのせて、途中龍巻駅に停車することはあっても、ホトトギス駅へ直行する始発駅として意義あらしめたい」と述べた。この号から「俳句茶話」の連載が始まった。これは十雨の句歴体験と虚子の俳句道を語った十雨の俳話であった。果然、『勾玉』の稽古会は、東に西にネットワークを広げ、高知県下に三十近くの俳句会が持たれるようになった。
後年、東梨(ホトトギス同人)、長邦、川田朴子(勾玉主宰、ホトトギス同人)、橋田憲明(現主宰、日本伝統俳句協会理事)ら指導者の層を厚くし隆盛を極めている。
土佐の俳句風土記
(昭和63年発刊) 磯部巌夫 より
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