家庭礼拝

2024年11月17日

御言葉

彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。(ローマ人への手紙3章24節)

■家庭礼拝のために■ (←左の文字をクリックすると、印刷用のPDFファイルを開くことができます)

主の祈り、使徒信条、聖書、奨励は、ページの下にございます。スクロールしてお読みください。

黙 祷    

讃美歌    22

主の祈り

讃美歌   288

聖 書   ローマ人への手紙3章21節~31節(新約聖書P.236)

讃美歌   303

奨 励   「神の義」

讃美歌   451

頌 栄    24


主の祈り

天にまします我らの父よ、ねがわくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。みこころの天になるごとく地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を 我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ。国とちからと栄えとは限りなくなんじのものなればなり。 アーメン (1880年訳)

使徒信条

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがへり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまへり、かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審きたまはん。我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交はり、罪の赦し、身体のよみがへり、永遠の生命を信ず。アーメン

聖書 ローマ人への手紙3章21節~31節(口語訳)

 しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された 罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。すると、どこにわたしたちの誇があるのか。全くない。なんの法則によってか。行いの法則によってか。そうではなく、信仰の法則によってである。わたしたちは、こう思う。人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのである。それとも、神はユダヤ人だけの神であろうか。また、異邦人の神であるのではないか。確かに、異邦人の神でもある。まことに、神は唯一であって、割礼のある者を信仰によって義とし、また、無割礼の者をも信仰のゆえに義とされるのである。すると、信仰のゆえに、わたしたちは律法を無効にするのであるか。断じてそうではない。かえって、それによって律法は確立するのである。

奨励〔要約〕

 ユダヤ教から改宗した人たちは、信仰を求める異邦人に律法に従って割礼を求めました。このような問題を受けて、パウロは福音を順序立て教え、人の罪を明らかにして、律法を行うことで神様の御前に義とされないこと、罪を自覚させるだけであること、神様の義によって罪の赦しがあり、ただ信仰による救いを示しました。私たちは、毎日のように大なり小なり多くの罪を犯すのではないでしょうか。イエス様は、聖霊が「罪と義とさばきとについて世の人の目を開く」(ヨハネ16:8)と言われたように、信仰が与えられなければ、罪の恐ろしさに対して何の感覚もありません。私たちの罪は、神様の御前に覚えられ、善人のように振る舞っても、自分の中からも消えることはありません。罪から逃れられず、死と永遠の滅びにおびえ、神様の怒りと裁きの前に為す術がないのです。そんな私たちに対して「福音」は救いを得させる神様の力である(1:16)、「神の義」は福音の中に啓示されている(1:17)、旧約聖書全体に証しされているのです。イスラエルは、神様に対して不信仰、反逆の歴史を刻んでいます。荒野の青銅のへびの出来事は、神様の言葉に従って、へびを見上げた人は生かされました(民数21:4~9)。イエス様は、青銅の蛇はご自身の予表(ヨハネ3:14)と言われました。イエス様の十字架の贖いには「神の義」が示され、私たちに信仰を与え、その信仰によって、私たちを義(義でない者を神様の命で支配し義人を造り出す)として下さるのです。パウロは「人が義とされるのは、律法の行いによるのではなく、信仰による」と繰り返し教えています。私たちは、律法学者のように、自分で努力することが必要である、律法を守らなければならないと考える傾向があるからではないでしょうか。律法は、罪人を赦し、救うことはできません。罪人の赦しは「神の義」によるものです。その源には、ひとり子を賜るほとの愛によるからなのです(ヨハネ3:16)。放蕩息子や、良きサマリヤ人の譬のように、どんなに罪に汚れ、弱り果てていても、神様の憐れみは私たちに注がれているのです。神様の恵みは、キリストと共に私たちを新たに生かす力となるのです(エペソ2:5)。そのとき、神様に従うことが喜びとなるでしょう。

讃美歌のメロディーは、google、Yahooなどで〔讃美歌21 ○○○〕(○○○は讃美歌番号)を入力すると、You Tube などで聞くことができます。