家庭礼拝

2025年1月19日

御言葉

律法は、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れて行く養育掛となったのである。(ガラテヤ人への手紙3章24節)

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主の祈り、使徒信条、聖書、奨励は、ページの下にございます。スクロールしてお読みください。

黙 祷    

讃美歌   197

主の祈り

讃美歌   210

聖 書   ガラテヤ人への手紙3章15節~29節(新約聖書P.296)

讃美歌   280

奨 励   「主のもとへ」

讃美歌   430

頌 栄    24

主の祈り

天にまします我らの父よ、ねがわくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。みこころの天になるごとく地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を 我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ。国とちからと栄えとは限りなくなんじのものなればなり。 アーメン (1880年訳)

使徒信条

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがへり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまへり、かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審きたまはん。我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交はり、罪の赦し、身体のよみがへり、永遠の生命を信ず。アーメン

聖書 ガラテヤ人への手紙3章15節~29節(口語訳)

 兄弟たちよ。世のならわしを例にとって言おう。人間の遺言でさえ、いったん作成されたら、これを無効にしたり、これに付け加えたりすることは、だれにもできない。さて、約束は、アブラハムと彼の子孫とに対してなされたのである。それは、多数をさして「子孫たちとに」と言わずに、ひとりをさして「あなたの子孫とに」 と言っている。これは、キリストのことである。わたしの言う意味は、こうである。神によってあらかじめ立てられた契約が、四百三十年の後にできた律法によって破棄されて、その約束がむなしくなるようなことはない。 もし相続が、律法に基いてなされるとすれば、もはや約束に基いたものではない。ところが事実、神は約束によって、相続の恵みをアブラハムに賜わったのである。
 それでは、律法はなんであるか。それは違反を促すため、あとから加えられたのであって、約束されていた子孫が来るまで存続するだけのものであり、かつ、天 使たちをとおし、仲介者の手によって制定されたものにすぎない。仲介者なるものは、一方だけに属する者ではない。しかし、神はひとりである。では、律法は神の約束と相いれないものか。断じてそうではない。もし人を生かす力のある律法が与えられていたとすれば、義はたしかに律法によって実現され たであろう。しかし、約束が、信じる人々にイエス・キリストに対する信仰によって与えられるために、聖書はすべての人を罪の下に閉じ込めたのである。
 しかし、信仰が現れる前には、わたしたちは律法の下で監視されており、やがて啓示される信仰の時まで閉じ込められていた。 このようにして律法は、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに連れて行く養育掛となったのである。しかし、いったん信仰が現れた以上、わたしたちは、もはや養育掛のもとにはいない。あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。もしキリストのものであるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである。

奨励〔要約〕

 異邦人の多いガラテヤ地域ですが、パウロの伝道によって教会が生まれました。この地での伝道の様子には「十字架につけれらイエス・キリストがあなたがたの目の前に描き出された」(3:1)とあり、福音の啓示が明らかでした。パウロが去るとユダヤ人教師が訪れ、律法の重要性を教えたのです。人には自分を高めたい、何かをしたいとの願望があり、彼らは律法を守ることに力を入れ、信仰から離れてしまったのです。パウロはガラテヤの人たちに、アブラハムの名をあげ、律法か、信仰かと迫りました。アブラハムは神様に喜ばれるように働いたのではなく、神様の約束を信じて義と認められたと強く訴えました。約束は土地の所有と子孫(いのち)に関するもので、神様から一方的に与えられた恵みの賜物なのです。律法は、神様の選びの民の上に神様の知恵と知識を示し(申命記4:6)、私たちに為すべき事、避けるべき事を教えています。しかし、私たちが律法を行うことによって、自分の義を求めるなら、罪を自覚させ(ローマ3:20)、死に導く(ローマ7:10)ものとなるのです。律法に忠実だったニコデモも、富める青年も、パウロも、人々から尊敬される人たっだと思います。彼らは、律法に従っても安息も喜びもなく「なんというみじめな人間なのだろう」(ローマ7:24)心から叫び、救いを求めたのです。律法は人を救うことも、命を与えることもできません。パウロは、律法には「すべての人を罪のもとに閉じ込める」、「監視する」、「キリストに連れて行く養育掛」の役割があると教えました。罪のもとに閉じ込めるとは、イエス様の十字架の贖いが成就するまでの囲いのようなものといえるでしょう。神様が選ばれた羊たちは、囲いの中で、悪の満ちた世からを守られているのです。囲いの中には、羊を養う御言葉によって、自分の力では打ち勝つことのできない気性、悪意、高ぶりなど、私たちの内に潜む肉の性質を教えるのです。養育掛は主人が信任している奴隷が担う仕事です。主人の子を学校に連れて行き、家庭教育もしていました。囲いの中で羊たちは、律法に心を探られ、自分には為す術がないことを示されますが、ただ主を信じることで、律法からも解放され、神の子となり、確かないのちの経験をするのです。

讃美歌のメロディーは、google、Yahooなどで〔讃美歌21 ○○○〕(○○○は讃美歌番号)を入力すると、You Tube などで聞くことができます。