家庭礼拝

2024年12月22日

御言葉

わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。(ルカによる福音書2章46、47節)

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主の祈り、使徒信条、聖書、奨励は、ページの下にございます。スクロールしてお読みください。

黙 祷    

讃美歌   175

主の祈り

讃美歌   249

聖 書   ルカによる福音書1章26節~56節(新約聖書P.85)

讃美歌   259

奨 励   「マリヤの賛美」

讃美歌   261

頌 栄    24

主の祈り

天にまします我らの父よ、ねがわくはみ名をあがめさせたまえ。み国を来たらせたまえ。みこころの天になるごとく地にもなさせたまえ。我らの日用の糧を、今日も与えたまえ。我らに罪をおかす者を 我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ。我らをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ。国とちからと栄えとは限りなくなんじのものなればなり。 アーメン (1880年訳)

使徒信条

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがへり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまへり、かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審きたまはん。我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交はり、罪の赦し、身体のよみがへり、永遠の生命を信ず。アーメン

聖書 ルカによる福音書1章26節~56節(口語訳)

 六か月目に、御使ガブリエルが、神からつかわされて、ナザレというガリラヤの町の一処女のもとにきた。この処女はダビデ家の出であるヨセフという人のいいなづけになっていて、名をマリヤといった。御使がマリヤのところにきて言った、「恵まれた女よ、おめでとう、主があなたと共におられます」。この言葉にマリヤはひどく胸騒ぎがして、このあいさつはなんの事であろうかと、思いめぐらしていた。すると御使が言った、「恐れるな、マリヤよ、あなたは神から恵みをいただいているのです。見よ、あなたはみごもって男の子を産むでしょう。その子をイエスと名づけなさい。彼は大いなる者となり、いと高き者の子と、となえられるでしょう。そして、主なる神は彼に父ダビデの王座をお与えになり、彼はとこしえにヤコブの家を支配し、その支配は限りなく続くでしょう」。そこでマリヤは御使に言った、「どうして、そんな事があり得ましょうか。わたしにはまだ夫がありませんのに」。御使が答えて言った、「聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうでしょう。それゆえに、生れ出る子は聖なるものであり、神の子と、となえられ るでしょう。あなたの親族エリサベツも老年ながら子を宿しています。不妊の女といわれていたのに、はや六か月になっています。神には、なんでもできないことはありません」。そこでマリヤが言った、「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」。そして御使は彼女から離れて行った。
 そのころ、マリヤは立って、大急ぎで山里へむかいユダの町に行き、ザカリヤの家にはいってエリサベツにあいさつした。エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、その子が胎内でおどった。エリサベツは聖霊に満たされ、声高く叫んで言った、「あなたは女の中で祝福されたかた、あなたの胎の実も祝福されています。主の母上がわたしのところにきてくださるとは、なんという光栄でしょう。ごらんなさい。あなたのあいさつの声がわたしの耳にはいったとき、子供が胎内で喜びおどりました。主のお語りになったことが必ず成就すると信じた女は、なんとさいわいなことでしょう」。
 するとマリヤは言った、「わたしの魂は主をあがめ、
わたしの霊は救主なる神をたたえます。
この卑しい女をさえ、心にかけてくださいました。今からのち代々の人々は、わたしをさいわいな女と言うでしょう、
力あるかたが、わたしに大きな事をしてくださったからです。そのみ名はきよく、
そのあわれみは、代々限りなく主をかしこみ恐れる者に及びます。
主はみ腕をもって力をふるい、心の思いのおごり高ぶる者を追い散らし、
権力ある者を王座から引きおろし、卑しい者を引き上げ、
飢えている者を良いもので飽かせ、富んでいる者を空腹のまま帰らせなさいます。
主は、あわれみをお忘れにならず、その僕イスラエルを助けてくださいました、
わたしたちの父祖アブラハムとその子孫とをとこしえにあわれむと約束なさったとおりに」。
マリヤは、エリサベツのところに三か月ほど滞在してから、家に帰った。

奨励〔要約〕

 マリヤがヨセフと婚約したのは十代半ば頃と言われます。マリヤが新しい生活のために学ぶ日々を過ごしていた時、御使がマリヤにあらわれました。マリヤの反応は祭司ザカリヤの様子とは対照的です。御使を見て驚いた様子はがなく、「恵まれた女よ、おめでとう。主があなたと共におられます」の言葉を聞いて、心が乱れてしまいました。それでも、御使の言葉の意味を思い巡らせたのです。ユダヤの子供は、幼い頃から会堂で礼拝を守り、律法やユダヤの歴史を学び、律法に従う生活を教えられます。マリヤも、日々の生活で、御言葉によって過ちに気づかされたり、罪を自覚することもあったでしょう。マリヤは、御言葉によって自分がどんな者であるかを教えられ、謙遜を身につけていました。また御言葉は、荒れた心を潤したり、神様のあわれみに包まれる経験を重ね、御言葉に命があることを経験していたのです。だから、御使の言葉に意味を思いめぐらせたのです。御使はマリヤの心を動きを知り、預言の言葉(イザヤ7:14、エゼキエル37:24,25)の通り、神様の御旨が成就することを告げました。マリヤは御言葉を受け取っても、ヨセフの思い、人々の誤解、誹謗中傷、石打ちの刑…と、次々と浮かんだでしょう。御使から、聖霊による受胎であること、エリサベツの懐妊を教えられ、神様の御旨の確実さを知らされました。マリヤは「主のはしため」として、生きるも死ぬも主の奴隷であると自覚したのです。エリサベツの身に起こったことも神様によることを確信し、自分の身に起こったことを誰にも告げず、ナザレからユダの山地まで大急ぎで出かけたのです。エリサベツは聖霊に満たされて、マリヤを「主のお語りになったことが必ず成就すると信じた女」と、真実な信仰であると言い表しました。マリヤは、心に蓄えられた御言葉の全てが、一つにつながったのです。神様の救いは、神様のあわれみによると感じとりました。エデンの園から追放、祝福の基となるアブラハム、ダビデの若枝が実を結ぶ約束が確信となったのです。マリヤに聖霊が臨み、どんな苦難があっても、信仰によって勝利できることを知りました。その時「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救主なる神をたたえます」と賛美があふれたのです。

讃美歌のメロディーは、google、Yahooなどで〔讃美歌21 ○○○〕(○○○は讃美歌番号)を入力すると、You Tube などで聞くことができます。