-61章-
復活の記憶(前編)




 明るい海岸。絶えない波音。白い砂浜。海鳥が鳴き、それに耳を傾け釣り糸を垂らす者。
 そんな砂浜を、彼女は歩いていた。栗色の髪をストレートに腰まで伸ばし、白い肌は海辺の民にしては珍しいほどだ。歳は、少女を抜け出し、女性となろうとしている時期くらいだろう。服は布一枚を工夫してドレスのように着ている。手には何も持っておらず、ここを歩いている理由は、ただの散歩だ。
 優しい風が、彼女を撫でる。良い風だ。
 最近、風の精霊を司るウィードが崩壊したと聞いたが、それが嘘のように思えてくる。
 ザァッ――。
 砂浜を歩いてみる。別に意味はない。ただの散歩だからだ。
 ザザァッ――。
 不定期な、しかし何かのプロフェッショナルから見れば定期的な波の音。そして彼女はそうしたプロではない。だからこそ、波の音だけでも楽しい。
 ザザザァッ――。
 見渡す限り全てが浜辺、というわけでないのだが、自慢していいほどの透明さを保つ海や、白い浜は彼女をずいぶんと満足させた。
 ふと、何かが目に映った。
 青い海では見る事のできない色、日常でも見る機会はあるのだが、食事の準備くらいでしかその色は見ない気もする。彼女が住む村では、青系統の色が主流として使われているで、その色を見る機会が少ないのだ。
 疑問に思いつつ、慌ててそれに近づくと、彼女は小さな叫び声を上げて驚いた。
 どこから流れてきたのだろうか、それは人だった。
 炎のように赤い髪をした男だったのだ――。


 動けない――。
 一歩づつ、闇が迫ってくる。しかし、動けない。
 その闇は、鋭利な武器を持っている。また、動けない。
 その武器を身に受けると確実に死ぬだろう。やはり動けない。
 動けない?
 動かないのではないだろうか?
 嗚呼、武器が、剣が、鋭利な刃が、自分を襲おうとしている。
 闇に動かされて、従われて、導かれて、自分を殺そうとしている。この世から消し去ろうとしている。
 ――動けない。
 刃が、剣が自分の目に前に来た。確かに来た。
 嗚呼、漆黒の刃はすでに赤い液体で濡れている。
 ぬるりとしているのが見るだけでも分かる、その液体は血。
 誰の?
 目の前にいる人物。そこで倒れている人物。
 腹部から今もなお紅い液体が服を濡らし続けている、その人の血に決まっている。
 目の前にいる人物――。助けてくれたその人――。
 最も身近にいるはずの、自分が守るべき人物であり、そして仲間でもある、その人――。


「ルイナッ!!」
 叫びながら身を起こすと、そこは部屋の一室だった。見たこともない、しかし安らげる部屋。自分の腕や額、あらゆる部分に包帯がしてあった。
 ベッドで眠らせていたらしい。上半身は裸で、下はズボンをはいているだけだ。
「ここ、は?」
「あっ! やっと目を覚ました」
 声がした方向を見ると、彼女は入り口の場所に立っていた。栗色の髪をストレートに腰まで伸ばした少女のような女性だ。いや、少女を抜け出して女性になりかけという時期だろう、どういう表現をすればいいのか悩む。
 服は布一枚のようだが、ドレスのように着ているという器用な着方をしている。
「アンタは?」
 手に水が入った水桶を抱えている。そういえば身を起こした時に、額に乗せてあったタオルを落としたらしい。
「私? 私はティリー」
「オレは、エンだ」
 ティリーと名乗った相手に、とりあえず自分の名前を名乗る。
「あなた、三日も眠っていたわよ? 拾ったときからずっと」
「拾った?」
「ええ、海に流されていたの。いったい、どうしたの?」
「オレ、オレは……」
 言おうとして、エンは何も言えなかった。頭がひどく痛む。
 なんだ? 何を言おうとした? オレは一体何を言おうとしたんだ?
「ちょっ、どうしたの?」
 ティリーの言葉でハッとする。いつのまにか、無意識のうちに痛む頭を押さえていた。腕、額、とにかく包帯が巻いてある個所に、激痛が走る。
「もう、そんなに力んだら傷口開くわよ」
「悪い。けど、何も思い出せないんだ」
 えっ、とティリーが驚きの言葉を短く発する。
「ちょっと待っていて!」
 彼女は慌てて部屋から飛び出して行った。一人になった。見た限り、自分の怪我は酷そうだが、動けるくらいにはなっている。
 頭が痛む。全身の痛みより、頭痛のほうがよっぽどヒドイ。
 思い出せない。自分の名は知っているのに、他のものが何も思い出せない。

 数分して、ティリーが戻ってきた。医者らしき老人を呼んで来たらしい。老人は白い白髪に白衣を着ている。まるで、全身で医者だ、と示しているような格好だ。
「私は見ても解ると思うが、この村で医者をやっている。ホールというのが名だ」
 ホールと名乗った老人は、診察器具をバタバタと出してエンを調べた。
「ところで、君の名前は?」
「エンだ」
「どこから来たのだね?」
「……わかならい」
「今まで何をしていた?」
「……わからない」
「昔の経験とかは?」
「……わからない」
「生活的知識はあるかね?」
「それなら、わかる」
「例えば?」
「そうだな、料理とかなら得意だ」
「どこで覚えた?」
「……わからない」
「そうか」
 診察中にいろいろと質問されたが、ほとんど答えることはできなかった。だが、質問されることで、自分には生活ができるほどの基礎知識があると理解する。
 向こうも同じような判断をしたらしい。
「ふむ、記憶喪失という症状は扱ったことがないのだが……。聞いた話によるといきなり思い出すかもしれないし、永遠とこのままだという可能性もあるという。とりあえず、気長に待つてばいい。まずは全身の外傷を治すことだ」
 ホールは肉体的な傷はだいぶ良くなっている、告げるてどこかへ消えてしまった。
「ね、そういえば『ルイナ』って人の名前なの?」
 二人だけになって、ティリーが聞いてきた。
「……誰だ、それは?」
 エンは聞き返したが、彼女がわかるはずがない。さらに、彼女は複雑な表情をしている。
「誰って……あなた起きる時に叫んだじゃない?」
「…………?」
 どうやら覚えていないようだ、とティリーは判断する。それに、無理に思い出そうとすると頭痛がするのでエンとしては記憶を辿るという行為を今はやりたくないのだ。
「そういえば、ここはどこなんだ?」
 潮の匂いがするので、海の近くだということはわかっていた。
「ここ? ここは漁村『フィッシュベリー』の酒場を兼ねた宿屋『INNホーク』よ。私、一応この宿の経営者なの。客といえば、近所のおじさんたちが酒を飲みに酒場に来るくらいだけどね」
 聞いたことのない村名だった。といっても、今の状態では知っている地名すらないのだが。
「ね、お腹すいてない?」
 笑うティリーに薦められ、エンはとりあえずそれに頷いた。起きたときから空腹で堪らなかったのだ。


「うん、旨かったぁ〜」
 エンが店のメニューの全てを一通り平らげ、ティリーは呆れ顔をしていた。まさかこれほど食べるとは思っていなかったのだ。ケガ人であるはずのエンの食欲は異常とさえ思えたので、もう一度医者のホールを呼ぼうかと思ったほどだ。
 時刻は夕刻になりかけ、外は赤みが差している。
 やっと皿の片付いたところに、客が数人入ってきた。五十代後半の、いかにも海の男という雰囲気を纏っている。全員、端から見ても浮かれていることがよくわかった。大爆笑しつつ店に入ってきたからだ。
「あ、いらっしゃいませ〜」
 ティリーがにこやかに挨拶を送って席へと案内する。
「今日は大漁だったみたいね」
 客といっても同じ村の身内なので、気軽に話しかけることができるらしい。客の浮き具合を見て、もっとも的確であろう話を切り出した。
「おうよ、かなりの魚が取れたからな。ティーちゃんにも後で数匹あげるよ」
「んふふ、ありがと。でも、先にツケを払ってくれないかしら?」
「十匹で三日分は?」
「せいぜい一日分ね」
 冗談を交わしあいながら、談笑する。もちろん、酒を運ぶことを忘れていない。
 そんな光景を、エンは何気なく見やっていた。
 かつては、自分もこれに似た光景の輪の中の一つにいたような気がしたのだ。どこか、遠い場所の平和な村で暮らしていたような……。だがしかし、思い出そうとすると頭が痛む。
「お、アンタ、確かティーちゃんが海で拾ったていう男かい?」
 いきなり自分に話題が振られ、思考に深く入りかけていたのだから、出し抜けに呼ばれた感がある。そのためか、慌てることはなかったが少々驚いた。
「あ、ああ。そうだけど」
「いいね〜。俺も女を拾いたいよ」
 オレは男だが、という質問はナシらしい。冗談話として受け取ったし、向こうもそういう意味で言ったのだろう。
 また、扉が開き、数人の客が入ってくる。
 何故か、エンにとっては懐かしい匂いがした。
「いらっしゃいませ〜。今日は……ダメだったの?」
 全員、先客よりもずっと覇気がなく、落ち込んだ様子だ。全員が、溜め息をつきながら店に入ってきたからだ。
「ああ。まったく、シーホークのやつらは大漁で、うちらホークアイは全然なんてな」
 首を傾げたエンが、後でティリーに聞くと、シーホークは海で働く組合の名称で、ホークアイは森で働く組合の名称らしい。フィッシュベリーでは鷹を神聖な動物として扱っているので、ホークの名がつくものが多いそうだ。そういえば、この宿の名前もホークが付いていた。
「一体、どうしたの?」
 酒を運びながらとりあえず聞いてみる。ヤケ酒にならないように注意するつもりではいたが、内容次第では仕方ない場合もあるからだ。
「どうしたもこうしたもないよ」
 一人の男性が言う。
「ホークウッドで、巨大で良い木を発見したんだ」
 違う男性が言う。
「けど、あそこは最深部あたりだから魔物が出て」
 また違う男性が言う。
「切るヒマもなく襲われちまうんだ」
「もうすぐ冬だろ。はやめにアノ木を切って、薪を作らないと」
 全員が一斉に嘆息する。最後の望みが塞がれているという感じだ。
「でもさ、ここは温暖気候だし、薪が少し遅れてもいいんじゃない?」
 なんとか説得しようとティリーが励ます。向こう側の席ではシーホークの連中の陽気な声が聞こえる。まるで祝宴状態だ。
「確かにそうだが、今まできっちり同じ時期に同じ数だけ揃えてきたんだ。今年に限って遅らせるなんて……」
 また、全員がため息をつく。
「……オレがやってみようか?」
 いつのまにか席を移動していたエンに、全員の視線が行く。明らかに不安そうな視線だった。無理も無い。全身包帯で巻かれているエンは説得力というものがないのである。
「大丈夫なのかよ?」
「てか、樵の経験はあんのかよ?」
「余所者にやらせるなんて……」
「そもそも、お前誰だよ?」
 口々に質問を繰り返し、エンはどれにどう答えればいいのかに悩んだ。
「ま、なんとかなるだろ」
 とりあえず、その一言で締めてみた。

 翌日。
 斧をひとつ借りてエンはホークアイの連中とともに森――ホークウッドといったか――に入った。ふと、懐かしい感覚がしたし、無意識に木の性質を判断した。
「(確かに、ダメなものばかりだな)」
 海の近くだからというわけでもないだろうが、薪に適したとは言えない木が数多くあった。なぜそれれらが良質の木ではないと判断できるのか、自分でも不思議だった。
 森に入って一時間ばかり歩いた所で、先頭に立っていた者がエンに最後の忠告をした。
「ここから深部に入る。本当に来る気か?」
 魔物に襲われないか、エンはケガ人でもあるし、余所者でもある。その他もろもろの不安をホークアイの全員は共感していた。
「死にはしないだろ」
 冗談めかして言うが、その顔は少し引きつっている。確かに魔物の襲われたら、作業斧一本でどうにかできるものではない。魔軍の進行が早まっているという噂を聞いた、とティリーからも忠告を受けている。
「なら、行くぞ」
 そして、彼らは森の奥へと入っていった。


 その木の場所まで来るのに、一時間もかからなかった。そんなにかけていたら魔物に喰い殺されかねないが、ここまでは無事だったと言っておこう。
 今エンの目前には、巨木が立っていた。
 立派な木だと思う。手触りや外見から、これが最高級の素材であるとエンの勘が告げていた。これなら、冬を一つ越せるほどの薪がすぐに入手できるだろう。
 斧を構え、深呼吸する。
 ホークアイの連中が見守る中、エンは不思議と自然な気持ちで木を見つめる。
 懐かしい。いつか見た昔の風景と重なるようだ。もしかしたら、自分は樵だったのかもしれないと直感で思う。そして、それが正しいような気がしてならない。そう思うと、自然と笑みがこぼれた。
 そのことに自分が気付いた時は、巨木が倒れていた。

 昨晩と一変してしまった。
 ホークアイが祝宴の如く酒盛りをやり、シーホークは反省会だ。
 シーホークは昨日と同じ穴場に行ったら今日は一匹もかからず、そして今日という仕事日が終わってしまった。
 ホークアイは冬までに間に合った薪と、新たな若き樵の仲間に乾杯! ということで宴を開いている。
「がっはっはっは〜〜! 飲め呑めぇぇ!!」
「ハァ…………」
「かんぱ〜〜〜〜い!!!」
「どうする…………?」
「うおおおおおおおおおおお」
「どうしようもない。また明日に頑張ろう、ハァ…………」
 昨日とバッタリと立場が変わっている客に対して、ティリーは嬉しいような悲しいような複雑な表情を浮かべている。それでも、どこか楽しそうだった。客がいるから、というわけではないようにも見える。

 ――バタンッ!!

 理由を聞こうとしてティリーに近寄ろうとする前に、入り口の扉が大きく開かれ、そして派手な音を立てて閉められた。
 入ってきたのは、村に住むものというより、町の館に住んでいる人物のようなスーツを着込んだ、黒髪の小柄な男だった。その男を見て、宴をしていたホークアイも、反省会をしていたシーホークも、そして常に愛想のいいティリーすら黙ってしまった。
「おやおや? この店は接客態度がなっていないようだ」
 鼻で笑う仕草を見せて、男はずかずかと奥へ――ティリーの前へ――入ってきた。
「……ジーガさん……」
 ティリーのほうは心底嫌そうな顔をしている。ジーガと呼ばれた男は、海の男と森の男どもに睨まれても気にした様子はなかった。
「考えてくれましたか、ティリー? この宿屋を娯楽施設にすることを」
 エンはよく知らないが、これはこれでよくある話だ。
 オンボロというわけでもないが、経営状況が良くない店は潰され、たいていカジノなどの胴元が一番儲かる施設を作ろうとする。その標的が、たまたまこの宿屋INNホークだったらしい。
「その件は以前にお断りしたはずです。第一変でしょう? 温泉のあるカジノなんて」
 ティリーはこれまた月並みな台詞を返した。そういえば、この宿の裏庭には温泉があるらしい。露天で、夜は星空を見上げながら寛げるとか。
「変だからこそ、客寄せに使える」
 ニヤニヤとしながら、ジーガは勝手に話を進めようとする。
「とにかく、この宿は譲れません!!」
「宿を少し改築するだけでしょう。貴女に出て行けと行っているわけではないんですよ?
 改築した後に、色々な、、、、お客のお世話をする人が必要ですから」
 好色な笑みを浮かべ、ティリーを値踏みするようにジーガが見る。
後ろで見守っていた男たちの殺気が、異様に鋭くなる。しかし、それらを向けられている当人は気にも止めず、さらに話を進ませた。
「明日……、いえ、今日という日が終わるまでに、ご返事を。場所はデュー様の屋敷で」
 ジーガが取り締まっていると思っていたが、違うようだ。デューというのは、この村の村長でもあり、近くの町の町長も務めているだとか。欲深いことだが、それほど領土欲の持ち主であろう。そのような人物なら、このような宿一つ潰すくらい、造作もないことに思える。
 ジーガは堂々と背中を向けて帰っていった。やはり、男たちの視線を気にせずに。鈍感なのか、よほどの自信の持ち主なのかは不明である。
「ったく、なんなんだよ」
 海の男と森の男が共同で怒りまくる。全員がごついだけあって、この二組が揃うとかなり恐い。
「ちくしょう! ここをなんだと思ってんだ!」
「ティーちゃんの親父さんの形見を奪うたぁ許さん!!」
「今から殴りこみに……!」
「どうせなら隣村の連中も……!」
「ちょ、ちょっと皆! 落ちついてよ!!」
 少しずつ乱暴で危険で恐ろしい会話になってきたため、一番の被害者であるティリーがそれを止めた。だが、彼らは矛を収める雰囲気全く見せない。完全にジーガの態度にぶちキレている。
「…………」
 この中で唯一事情を知らないのはエンだけだ。最近ここに来た彼にとって、これは他人事でしかない。しかし、助けてもらった礼もあるし、他人事だからといって何もしないのは悔しいと思う。
「なぁ、そのデューって奴の屋敷の場所を教えてくれないか?」
「っ!? アナタまでなにを言っているの?!」
「いいから、教えてくれ!」
 無意識に声を荒げてしまった。その気迫に押されてかどうかは知らないが、騒いでいたものたちが次々と黙って行く。
「この宿を潰したくない。だから、あいつらに戦いを挑むという返事をオレがしてくる」
 勝手な事を、と思われてもよかった。ただ、何もできないのが嫌だったのだ。ただの数日でも、エンはこの場所が好きになったのだ。だから、自分ができることを、何かしたかったのだ。
 どう答えるかは向こう次第だし、話し方もエン次第だ。恐らく、エンは拳の一発でもジーガやデューに叩き込むだろう。宣戦布告の意味で。それは、その場にいる血気盛んな男どものやりたいことであり、ティリー本人もどこかでそれを望んでいたことだ。闘うことを、抗うことを、自分たちの生きる姿勢を見せることを、皆願っている。
「宿を潰したくないのは私も同じよ。だけど」
「助けてもらった礼がしたいんだ。これくらいやらせてくれよ」
 ティリーの言葉を塞いだエンの口調は、家事を手伝うときのような気安さだった。ただし、その瞳に見える輝きだけは本物の強さを秘めていた。それに気付いたのは誰もいなかったが、雰囲気で感じ取ったらしい。彼に任せたほうがいい、と。

次へ

戻る