-72章-
しあわせ歌



 三界分戦後期は、既に人間も魔法を操ることができるような時代となっていた。
 だがそれは前線に立つ人間たちばかりで、戦争とは無縁の地では、異能の力としか見られていなかった。
 この時代の魔法は、魔力をそのまま力に変換する魔術魔法が主であり、現代の精霊魔法が浸透するのはまだ先の話だ。
 そんな時代に、彼女は強大な魔力を持っていた。
 後に、仮面にその魂を宿すことになる彼女の名は誰も知らない。
 仮面をつけることで彼女にまつわる記憶が入ってくるのだが、何故か名前に関する記憶が欠落している。
 彼女はその身に宿す魔力をひた隠しにしていた。
 強すぎる魔力は、不幸しか生まない。そのことを知っていた彼女は、なんの魔力も持たない一般人に紛れて過ごしていた。
 彼女は歌が好きで、暇があれば歌っていた。
 歌の才能があったのだろう、彼女の歌声は周囲の評価も高かった。
 そんな彼女にも恋人ができ、やがて幸せな家庭を築いていく。平凡な、しかし幸せな人生だった。
 だが、その幸せは、最後まで続くことなく潰えることになる。
 三界分戦は一層激化し、世界中を巻き込んだ戦争は戦いの技を持たない者ににさえ影響を及ぼし始めた。
 特に、強い魔力は惹かれあう。例えそれが望まぬものであったとしても、だ。
 彼女の魔力に引かれ、魔族が襲い掛かるようになってきたのだ。
 最初は人間たちも武器を取り、抵抗した。しかし一人、二人と人間たちは命を奪われ、魔族たちは増える一方だ。絶望に駆られた人間たちは、責任を押し付け合い始めた。
 そんな時に、魔族の一人が彼女を指差して言ったのだ。
「そこの女の、秘めたる強大な魔力に我々は惹かれている=v
 さすがに魔族に隠し通すことができず、その事実を晒された。
 その時の魔族はなんとか追い払えたが、標的となる者がまだ一人。
 人間たちは、彼女を見た。

 お前のせいだ。
 お前がいるから魔族が襲ってくるんだ。
 出て行け。出て行け。

 人間たちは容赦なく彼女に怒りをぶつけ、罵詈雑言を浴びせた。
 強い魔力を有していることが晒されてしまい、周囲の人間たちに迷惑をかけることになっていたことを知った彼女は、周囲の望み通り出て行こうとしていた。
 気がかりになるのは、彼女は既に子を授かっていたことで、自分の傍に置くことは危険にさらすことになる。それを恐れた彼女は、自分一人で誰も近づかない山奥にでも逃げようとしていた。
 しかしその決断よりも、周囲の人間たちの憎悪が形になるほうが早かった。
 周囲の人間たちは、彼女の夫と子どもに手をかけたのだ。見せしめのために。責任を押し付けるために。
 彼女自身を狙わなかったのは、彼女の強大な魔力を恐れたからである。その為、戦う力も魔力も持たない人間に目を付けたのだ。
 愛する人を一度に失った彼女は、自分が早く出て行かなかったからだという自責の念と、力なき人を手にかけた周囲の人間たちへの憎しみにより、発狂してしまった。
 彼女は復讐を誓い、初めてその身に宿す魔力を行使した。
 魔力を制御し、自在に操れたのは歌の才能のおかげか。魔力の波長を見つけ出し、組み合わせるのは容易であった。
 そこで彼女は、一つの魔法を完成させる。
 彼女は一度、わざと人間たちに投降し、処刑を待った。
 そして処刑の日、彼女が確実にこの世から去ったことを確かめるべく、多くの人間が集まっていた。
 この辺りの人間たち全員がこの場に集まっているのだろうと思えるくらいの数を見て、彼女は笑みをこぼした。

 ――わたしはあなた達を許さない。

 処刑台に立たされた彼女は叫びこそしなかったが、心の中で声を張り上げた。
 無言で周囲を見渡す彼女の視線は、目が合ったら石になってしまうのではと錯覚するほど冷たい。
 隣に立っていた処刑人は、理由もなく足が震えたという。
 気のせいだ、と平静を装いながら、処刑人は彼女に聞いた。

――最後に言い残すことはないか。

 彼女は答える。

 ――ある。

 ぼそりと呟いた彼女は、顔を上げて声を張り上げながら、歌を唄った。
 全ての人間に聞こえろと言わんばかりの声量で、誰も奏でたことがない旋律、誰も知らない唄、誰も聞いたことのないその歌を、彼女は唄った。
 その歌を聞いた人間たちは、彼女に声に聴きほれたかのようにぼんやりと立ち尽くすのみ。
 やがて、一人。また一人とその場に崩れ落ちるかのように倒れて行った。
 倒れた人間は目を覚ますことはなく、恍惚とした表情でその命を散らせていた。
 あまりにも安らかな表情なので、眠っただけのようにすら見えてしまう。人間たちが異変に気付いて逃げなかったのは、そのせいではない。彼女の歌を一秒でも長く聞いていたいと思ってしまったのだ。
 彼女の歌は全てを支配していた。
 その命でさえも。
 やがて、集まった人間たち全てが倒れた。
 倒れた人間たちは誰一人として、二度と目を覚ますことがない。
 この歌を聞いた者の全ての命を奪う。彼女が完成させた魔法の歌だった。
 歌い終る頃に、彼女も満足した笑顔で目を閉じ、彼女自身の命の火も消え去った。
 歌うことによって、当然、歌う者の耳にもその歌は届く。
 それこそ、彼女の目的であった。
 人間たちに復讐を。自らにも死を。
 彼女自身、絶望した世の中に別れを告げたかったのだ。
 彼女の願い。それは歌う自分を含めて、この歌を聞いた者全てに等しい死を与えることであった。
 彼女はそれを達することができた。願いが叶ったのだ。
 願いを叶える、幸せの歌――否、願いを叶えた死合わせの歌。
 それが、『願いの幸せ歌』の真実である。

 本当なら、ここで『願いの幸せ歌』は彼女らと共に歴史からも姿を消すはずだった。歌を作った本人も、聞いた者たちも、全て死んでしまったのだから。
 だが、そこで終わらなかった。

 歌を聞くわけでもなく、人間たちが次々に逝く姿を遠くから見る者たちがいた。
 彼らはこの時を待っていたと言わんばかりに笑みを浮かべ、手に持った仮面を弄る。
 彼女の歌が、彼女自身に影響を及ぼし、最後の一人となって倒れたその瞬間、彼らは禍々しい翼を広げ、音を超えるのではないかというほどの速度で彼女らの真上に飛んだ。
 彼らは魔族だ。遠くの様子を見る魔法を使い、彼女が死ぬ瞬間を待ち続けていた。
 魔族たちは仮面の力を解放した。
 その仮面には、魂を捉え、魔力に変換する力が備わっている。
 魔族たちは彼女の膨大な魔力を我がものとするべく、ずっとこの機会を窺っていたのだ。
 思惑通り、彼女の力は仮面に吸収され、彼女に秘められていた魔力は散ることがなかった。
 しかし、仮面に宿った魔力――彼女の魂は、単なる魔力に変換することに失敗していた。魂を魔力に変換すれば、元の魂がなんであれ魔力となるはずだったのに、彼女の魂は存在し続けていた。
 それ故に、魔族の企みを知った彼女の魂は、力の行使を拒絶してさえ見せた。
 魔族たちも最初は制御しようと必死だったが、その仮面の制御に時間を費やすより別の獲物を狙った方が良いという結論に至り、仮面を封印することとなった。
 そして、仮面を封印する理由がもう一つ。
 彼女の魂を無理やり封じ込めようとした結果、魂と魔力が暴走するようになり出したのだ。
 手元に置いておけば、何が起こるか分かったものではない。暴走する魔力を放置するわけにもいかず、魔族たちは仮面を封印した。
 別の獲物を探し始めた時である。三界分戦の終局、一つだった世界が三つに分かれるという事態が起きた。
 魔族たちは魔界に、しかし封印された仮面は人間界(ルビスフィア)に残った。
 時代は流れ、魔族たちの封印が甘かったのか、それとも封印されたはずの仮面の魔力が膨大すぎたのか、封印はいつしか破れていた。
 封印から解き放たれた仮面は意思を持ち、彷徨い始めた。
 そして、有能な吟遊詩人を見つけては、その者に取り憑き、支配下に置いた。己の手足とするためである。いくら仮面自身が意思を持ち彷徨えるとはいえ、肉体があるのとないのでは段違いだったのだ。
 仮面に取り憑かれた者は『彼女』の過去を情報として知り、そして仮面の意思に囚われる。
 仮面の目的は二つ。
 一つは、封じられた『死合わせの歌』を生きとし生ける者の全てに聞かせ、破滅を望む意思。
 もう一つは、この世に『死合わせの歌』を再現させてはならないという、平和を望む意思。
 度重なる魔族たちの魔力制御の圧力からか、異なる意思を持ってしまった。
 仮面は、お互いに相反しながらその意思を貫こうとする。
 仮面に取り憑かれた者は、二つの意思から交互に操られ、自身がどちらを望んでいるのかも分からずに精神が崩壊し、やがて死に至る。死に至れば、仮面は別の肉体を探し、再び彷徨い始める。
 それを、何百年も繰り返している。
 そして、今。仮面に取り憑かれた者が死に、新たな主として選んだのがシャミーユだったのである。


 長い話を終えて、シャミーユはゆるゆると息を吐いた。
 いつ仮面の意思が再びシャミーユを支配するか分からなかったのだ。
「信じてもらえるかしら?」
 改めて話すと、途方もない話だと自分でも思う。いきなりこんなことを聞かされて、すぐに納得できるとは到底思えなかった。
 皆は、話の真実に目を丸くしている。ただ、疑っている様子はない。
「『幸せの願い歌』が、そんなものだったなんて……僕らの国家研究は間違っていたのか」
 ツバサは真実に驚く所か、既に別の心配さえしている。
魔道国家(エシルリム)でも似たような事、やっていたよね。大きな国って、変なことを間違って掘り返すことが好きなのかな」
 王女の発言らしからぬことを口にしたイサに、リィダは苦笑いだ。ここにラグドがいたら、諌めてくれただろうに。
 皆の視線が、一人の女性に集まる。セナスだ。
 セナスは今にも泣きそうな顔で、姉のシャミーユを見つめている。
「お姉、ちゃん……」
「セナス……」
「お姉ちゃんが、いなくなったのは」
「仮面に魅入られたからよ。あなたを、巻き込みたくなかった」
 初めて仮面に支配された時、膨大な記憶の奔流がシャミーユを襲った。混濁する意識の中、自分がどういうものに侵されたのかを悟ったシャミーユには説明する暇もなく、ただ妹を巻き込むまいと姿を消したのだ。
「ちょっと待ってくれ。僕と出会った時も、君は仮面の支配下に置かれていたのか?」
 ツバサとシャミーユが恋仲であったのは、シャミーユがセナスの前から姿を消した後のことだ。仮面に支配されたのが行方不明になった理由ならば、ツバサとの時間は何だったのか。
 不安そうなツバサに、シャミーユは優しく首を横に振った。
「あなたといた頃は、仮面の意識から解放されていた……。私が大怪我をしてあなたに助けてもらった事、覚えている?」
「当たり前だろ。それが僕たちの出会いだ」
「私もあの時、初めて知ったのだけど。仮面は、一定のダメージを負うと魔力が枯渇して一時的に機能を停止させるみたい」
 ある時、シャミーユは大量の魔物に襲われた。膨大な魔力があるとはいえ、それは有限であり決して無限ではない。現在の宿主そのものが瀕死に陥り、仮面はその機能を停止させた。
 シャミーユはこのまま死んでしまうのだと諦めたその時、偶然にも近くを通りかかったツバサに助けられた。
 一命を取り留めたシャミーユは自分の名前くらいしか覚えていないくらいの記憶障害を患い、仮面のことも忘れていた。仮面自身が機能を停止させていたせいもあったのだろう。
 だが時が経つにつれ、仮面の魔力は次第に回復していく。仮面は魔力を回復させると再び意思を持ち、宿主の精神に食らいつく。
 同時に、シャミーユも全てを思い出した。
 運悪くツバサはベンガーナ直属の冒険者試験に出向いており、説明する暇もなく、そして愛するツバサを巻き込みたくないという思いもあり、書置きだけを残してシャミーユは去り、その後、再び仮面の意思に取り込まれてしまったのだ。
 その後、シャミーユは仮面の意思と共に行動し、今に至る。
「少し気になることがあるんだけど」
 と言ったのはイサだ。
 聞いた話の中で、いくつか不可解な点が出てきていた。
「今はあなたの意識がはっきりしているようだけど、仮面の意思に取り込まれているわけじゃないってこと?」
 その問いに、シャミーユは頷いた。
「魔法力を消費しきったり、ダメージを負った時に仮面の意思は弱まるってことだけど、私たちまだ直接的に戦ったりしてないよ」
 それでも今こうして仮面の意思が鳴りを潜めている。
「仮面の魔力も、どれだけ強力でも魔力は魔力だということよ」
 シャミーユはそう言って、セナスを見た。
 その為、彼女の視線を追って全員がセナスを見ることになり、全員の視線を受けたセナスは目をぱちぱちとさせている。
「わたし?」
「あなたがさっき歌った唄。あれは『退魔の歌』。魔力を一時的に封じる効果があるの」
 吟遊詩人が歌う唄にはあらゆる効果が付与される。例え、その効力を知らずとも発揮される場合があるのだが、それが今回のようなことだ。
「あの、ウチも気になったことがあるっす」
 恐る恐る、とリィダが小さく手を挙げた。
「さっき、ウチとキラパンは仮面の魔道士と戦って、逃げてきたっす。その前も、キラパンは今まで会った仮面の魔道士は全員違うって言うし……」
 それはリィダ以外も気にしていたことだ。
 同時刻に仮面の魔道士たる彼女が複数の場所に現れていた。
「あれは私であって私ではないわ。魔力で動かしている、私の姿をした魔法人形(パペット)よ」
 少なからず意思を持ち、簡単な命令を与えれば後は自分の意識で行動することも可能だという。行動原理の意識は、あくまで仮面の魔道士としてのものらしく、だからパペットの仮面の魔道士はリィダたちを襲ったのだ。
「それじゃあ、最後に僕も聞いていいかな」
 そう言ったのはツバサだ。
 柔和な彼の表情が、そのままのはずなのに何故か険しくなったように見えた。
「僕は『ブレイク・ペガサス』としてここに来ている。攫った吟遊詩人たちは、どこだ?」
 返答によっては斬りかかりかねない雰囲気に、思わずイサたちは息を呑んだ。
 平然としているのは、聞いた本人と、聞かれたシャミーユのみ。
「攫った理由は聞かないのね」
「聞いたらどうにかなるとでも?」
 ツバサの問いに、シャミーユはかぶりを振った。
「聞かれたところで私にもわからないの。あの行動は、破滅の意思が覚醒している時だった。なんであんなことをしたのか、目的は知らない」
「目的『は』、と言ったな。吟遊詩人たちがどこにいて、どうやったら解放できるかは知っているのか」
 シャミーユは少しためらって、今度は首を縦に振った。
「確かに知っている。彼らを解放する手段を、私は知っている。ねぇ、だから、ツバサ。あなたにお願いがあるの」
 あなたにしかできない、というわけではない。
 あなたにしてほしい。それがシャミーユの、彼女が彼女でいられる間の願いだった。
 しかし――。
「お願い、私を――」
「そこまでにして頂きましょう」
 シャミーユの言葉を、この場にいる誰でもない声が遮った。
 声をした方を見ると、執事の恰好をした男がゆっくりと歩いてくる。
 白い髪に、整った白髭。刻まれた皺は長い年月を生きた証だろうが、ぴんと伸びた背筋が若く見せている。
「誰?」
 イサの問いかけに、その老人は一度シャミーユを見た。答えてもいいのかどうか、判断を仰ぐように。それだけで、仮面の魔道士に関連する人物だということが認識できたが、その素性までわかるはずがない。
「気をつけて。私にも、正直に言うと彼が何者かわからないの」
 シャミーユの答えに、セナスとリィダ以外が身構えた。このような状況下で気をつけろなどと言われたら、戦闘になる可能性さえある。
「彼は気付いたら存在していた。仮面の魔道士の、どちらの意思にも協力的で、常に仮面の魔道士が望むことを代行してくれる」
 便利な人物ではあるが、その正体は仮面の魔道士自体も知らないらしい。彼の正体など些細なことだったらしく、追及することは今までなかった。ただ、彼の行動は常に仮面の魔道士が望むことであり、それはどちらの意思にも関係なく遂行しようとする。平和を望む意思と、破滅を望む意思は、全く別の願いとなるはずなのに、彼はその時に出てきている意思の望みを叶えようとする。
 その行動こそが、お互いの弱点となり得ることが多々あった。例えば今でも、セナスやツバサたちを生かして返したいと願っていれば言わずとも彼はその為の行動を取り、しかしそのために反対の意思はセナスたちを人質に取れば優位に立てることを知る。
 だからシャミーユと共に表に出ていた平和の意思は、セナスたちが生きていることを安堵しつつも、破滅の意思に妹たちが利用されることを恐れた。少しでも早く、この場から立ち去って欲しかったのだ。
「だったら、今なら私たちに協力してくれるってこと?」
 シャミーユの言う通りなら、彼女が望む行動を取るはずだ。シャミーユが嘘を言っているようには見えなかったが、それでも戦闘態勢を解く気になれなかった。それほどまでに、彼からは言い知れない威圧感がある。
「……この者たちに手を出さないで。引きなさい」
 イサの質問に答える代わりに、シャミーユは高らかに『彼』へ宣言した。
 彼は目を細めてシャミーユを、否、仮面を見た後に薄らと笑って首を横に振る。
「いいえ、それはあなたの望みではないでしょう」
「何を言って――」
 シャミーユは言い切る前に、目の前が真っ暗になる感覚に襲われた。
 いつもはゆっくりと眠るように消えるというのに。まるで電源をぶっつり切られたかのように、それはあまりにも唐突であった。
 シャミーユがその場にぐたりと倒れこむ。
「シャミィ?!」
「お姉ちゃん?!」
 ツバサとセナスが狼狽し、駆け寄るより先に、シャミーユは――仮面の魔道士は再び立ち上がった。
 そこから感じられるのは魔力と殺気。今、この場に出てきているのが、シャミーユの話にあった、仮面に宿るもう一つの意思。
 全ての破滅を望む意思。
「お迎えご苦労」
 シャミーユの声で、しかしその口調は全く別の人物のようであった。その為か、ツバサとセナスの駆け寄ろうとした歩みが止まる。
「私は常にあなた様と共にありますゆえ」
 主人に敬意を示すかのように老執事が一礼する。彼には、もう一つの意思が目覚める瞬間が分かっていたのだろうか。
「さて、君たちは私のことを随分と知ったようだな」
 ゆっくりと仮面の魔道士が執事の男の方へ歩いていく。強引に捕まえることもできただろうに、それができないでいる。まるで、見えない力で抑えつけられているかのように、動けない。
「……破滅を望む意思、か。ああ、いろいろ教えてもらったさ。だけど、あなたに直接尋ねないといけないようなことが幾つもある」
 身体が動かずとも、ツバサは必死に声を張り上げた。声を出すだけで辛い。喉がすぐに乾いてしまう。それでも、このチャンスを逃すわけには行かないのだ。
「何故、僕らの国から吟遊詩人を攫った? 破滅を望むのなら、放っておいて『死合わせの歌』の封印を解放し、勝手に死にゆく様を見物していればよかったじゃないか」
 仮面の魔道士は国中の吟遊詩人を攫った挙句、研究を止めよと警告まで出してきた。
 シャミーユから聞いた。破滅を望む意思は、『死合わせの歌』を振りまくことが目的のはずだ。それならば、ベンガーナが行おうとしていた研究は、彼女にとって有益なものになる。
「……さて、な」
 吟遊詩人大量誘拐について話す気はないらしい。
「それともう一つ。何故、君は僕らの前に現れた? 本物の実力を持たないとはいえ、魔法人形(パペット)を使うだけで僕たちを消耗させるには事足りたはずだ」
 今、目の前にいるのは正真正銘、仮面の魔道士の本体。本物のシャミーユの肉体を持つ仮面の魔道士だ。邪魔者たるツバサたちを倒すまではいかなくとも、少しずつ消耗させることができれば先ほどの様にツバサたちが優位になることもなかっただろう。
「……知りたければ、地下迷宮を脱して再び私の前に現れて見せろ」
 そう言って、仮面の魔道士は執事風の男をひきつれて悠々と歩いていく。
 追いかけたいのに、身体が動かない。全身が麻痺しているかのようだ。
 ついに、仮面の魔道士たちの姿が見えなくなるまでその場から一歩も動く事が出来なかった。


 誰も言葉を発する事も出来ず、動く事も出来ない。必死に仮面の魔道士に言葉をかけたツバサでさえ、既に声が出ない状態になっていた。
「イサ様?!」
 そこに、イサたちにとっては聞きなれた声がかかる。
「ラグ……ド……。あれ? 喋れる」
 それと同時に、固まっていた身体が動くようになった。
「身体も動く……。どうやら、麻痺の魔法だったんだろう」
 ツバサも身体の調子を確かめているようだ。
 どういうことになっていたのか分からずに、動けず喋れずパニックになっていたリィダは、目を回して倒れ込んでいた。混乱のあまり気絶したらしい。やれやれと言った具合にキラパンが彼女を口にくわえ、器用に放り投げて背中に乗せた。よくあることらしく、随分と慣れている。
「大丈夫ですかイサ様!」
 追いついた、というか偶然合流できたラグドが駆け寄る。当然、ジェットとサウンはツバサの前に行った。
「私はなんとか」
「僕もだ」
 イサとツバサはそれぞれ答え、次いで二人はセナスを見た。動けず喋れずの状態に混乱するよりも、姉の事を考えるので精一杯だったのだろう。動けるようになったというのに、仮面の魔道士が消えて行った通路の先をただ見つめている。
「セナス……」
 今は何と声をかければいいのか、イサにはわからなかった。
 大丈夫だよ、と根拠も無しに言うことなどできはしない。
「イサ様、一体なにがあったのです?」
 この場にいなかったラグドたちにとって、この状況が理解しがたいのは当然だろう。
 自分たちが聞いた話を整理する上でも、ラグドたちに今わかっていることを説明した。

「三界分戦の魔道士の魂、ですか……」
 話を聞いたラグドとジェット、そしてサウンの三人はそれぞれ少し考え込んだようで、お互い目配せをしたかと思うとサウンが懐から一冊の本を取りだした。
「つい先ほど、妙な部屋で見つけた宝箱に入っていたものです」
 分厚い本で、しっかりとした装丁は長い月日に耐えられることを重点的に作られている。つまり、長期間に渡って使われることが想定されたものだ。
「もしかして、魔書?」
「いえ、ただの日記です」
「仮面の魔道士の?」
「それも違います。どうやら、この地下迷宮を作った人物の日記のようです」
 ラグドたちが見つけた部屋の宝箱に封印されていた物は、これだけだった。魔法の鍵がかかっていたものの、サウンとジェットの二人が解除することにより入手できたのだ。
 地下迷宮を作った人物が日々の経過を綴っていたものだが、読んだだけでは不可解なことが幾つもあった。
 要約した内容と、その不可解な点をラグドが挙げると、先ほどまで仮面の魔道士と相対していた者たちが思案顔になった。どうにも、気になる点があるらしい。
「もう一度、彼女に会おう」
 と提案したのはツバサだ。
 彼の提案を否定する者は、誰もいなかった。


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