-73章-
本当の願い



 迷宮というのは、自然にできたものもあれば、人為的に造られたものもある。この地下迷宮は、どうやら後者のようだ。昔――それこそ三界分戦の頃まで遡れば、今では失われた技術が多く存在する。
 このような地下迷宮を作ってしまえるのも、その一つだ。
 その地下迷宮を作った人物の日記。途中までは単純に、よくあるような地下迷宮作成のための日誌のようなものだった。だが途中から、雰囲気が変わり始める。

  私はあの人と出会い考えを変えた。
  私はあの人のためにこの迷宮を作ることにしたのだ――

 そのような一文から始まり、その日を境に『あの人』という単語が出てくるようになっていた。

  あの人の歌を聞くために。
  あの人の願いを叶えるために。
  あの人に知られることなく、この迷宮に仕掛けを施した――

 『あの人』は仮面の魔道士のことを指しているのではないか、というのが推測された。シャミーユから聞いた仮面の魔道士にまつわる話からして、彼女は最初からここを根城にしていたわけではない。日記に書かれている『あの人』の特徴は、仮面の魔道士の特徴と合致するのだ。

  あの人に知られることなく、私はあの人の真実をこの迷宮に残した。
  あの人には見つけることができないだろう。
  あの人のような完成された魔力を持つものが近づいても反応はしない。
  むしろ、不安定で魔法の媒体になるような処置を施された者にしか反応しない。
  そして、そのような者がこの迷宮を突破するとは考えられない。

 誰かに見つけさせることが目的ではないようだったが、その仕掛けはリィダが解放してしまっている。エシルリムで『マナスティス・ムグル』の魔法復活の媒体となったリィダは、条件を満たしていたのだ。そして、迷宮の突破はキラパンという心強い仲間のおかげで奥まで入り込むことができた。
 『あの人』が仮に仮面の魔道士だとして、『あの人』の願いとは何なのか。仮面の魔道士は破壊を望む意思と平和を望む意思がそれぞれ宿っている。どちらの願いのことを言っているのか。
 ただ、妙に気になる文章があった。

  この日記を読んでいるだろう者たちよ。
  願わくは、私の望み――即ちあの人の願いを、どうか叶えてほしい。
  この日記を手にしたということは、それなりの冒険者であることだろう。
  あの人の、二つの意思が辿り着く願いを、どうか叶えてほしい。

 二つの意思が辿り着く願い。仮面の魔道士の、破壊と望む意思と平和を望む意思。それぞれが反発しあっている中で、二つが最後に望むことを、叶えてくれと書かれていた。
 だから、会って確かめなければならない。
 仮面の魔道士の、本当の願い。かつて人間に裏切られた彼女が、望む答えは何なのか。
 いくら考えても、それは想像でしかない。
 日記には特殊な魔法がかけられていたのだろう。持っているだけで分かれ道をどう進めばいいのかが自然に分かった。
 迷宮を抜けると、そこは仮面の魔道士が根城にしていた古い館の一階にまで辿り着き、その館内も妨害を受けずにあっさりと進むことができた。
 そして全員がやってきたのは、いかにも何かがありそうな大扉の前。
 恐らく、この先に仮面の魔道士は待ち構えているはずだ。
「入る前に、確認しておきたいことがある」
 ここまで会話らしい会話がなかったのだが、そんなことを言ったのはツバサだ。
 彼は振り返り、セナスを見た。
 今から言われることを薄々分かっているのだろう、彼女の顔も険しい。
「僕は『ブレイク・ペガサス』の人間としてここに来ている。当然、仮面の魔道士を倒すことが目的だ。例え、それが仮面の魔道士に支配されている人間を殺すことになったとしても」
 と、ツバサがはっきりと宣言した。仮面の魔道士に支配されている人間を解放できる方法が見つからない今、彼女を止める方法はそれしかない。
 だから、せめて、残酷な事実であったとしても、伝えておかなければならない。
 今から、セナスの姉であり、ツバサのかつての恋人であるシャミーユを、殺すと。
 何の誤魔化しもないツバサの言葉に、セナスは毅然と答えた。
「分かっています。覚悟は、できています」
 仮面の魔道士の望みとやらが叶えば、もしかしたらシャミーユを助け出すことができるかもしれない。しかし今のままではそれは推測の域でしかない上に、仮面の魔道士の望みも分からないのだ。このまま戦闘になる可能性の方が高い。
「セナスは、ここで待ってる?」
 と、不安そうにイサが聞いた。
 魔物の気配がないこの場所なら、セナス一人でも大丈夫だろう。今から仮面の魔道士と戦うかもしれないということを考えると、彼女がその場面を直視するのは避けた方が良いように思えたのだ。
 しかし、セナスは首を横に振った。
「連れて行って下さい。それに、戦うことになったら、私も一緒に戦わせて下さい」
 覚悟はできている。
 ツバサは好き好んでシャミーユを殺そうとしているわけではない。彼は選んだのだ。『ブレイク・ペガサス』の人間であることを。そして、彼女を倒すことでシャミーユを仮面の魔道士の呪縛から解放しようとしている。他人にその役目を譲るくらいなら、自分の手で決着させる。
 それと同様の覚悟を、セナスは決めた。
 姉と戦うことを。例えそれが、探し続けた姉の命を奪うことになったとしても。むしろ、妹の自分の手で、それを成さねばならない。他の人の手にかけられるくらいなら、自分でやる。
 実際に目の前にすれば迷いが生じるかもしれない。
 でも、今は。覚悟を、決めた。
 その意思を確認したツバサは、改めて大扉の方を向いた。
「行くぞ」
 大扉が、開かれる。


 扉の中は明かりがついておらず、外からの明かりが届く範囲まで慎重に歩を進めた。
 全員が部屋の中に入った途端、まるでそれを見計らったように扉が大きな音を立てて自動に閉まる。
 閉じ込められた、と思うよりも先に、不意に身体が妙な浮遊感覚に包まれた。それは冒険者なら誰でも感じたことのあるものによく似ている。つまり、旅の扉や転移呪文(ルーラ)を使った時の浮遊感と同様だったのだ。
「ここは」
 真っ暗だった部屋は一変し、そこかしこに何かの装置が置かれている大きな部屋となった。この広さは、館の外観からは信じられないほどである。先ほどの浮遊感と言い、ここは館の中と言うよりは、切り離された空間世界のようなものだろう。
「ここまで来たか」
 聞き覚えのある、艶のある声。仮面の魔道士が、部屋の奥底に佇んでいた。
 彼女の背後には、鏡のようなものが幾つも置かれている。鏡と言えなかったのは、そこに映りこむものが全くの別物だったからだ。映っているのは、別次元の、あらゆる場所の映像だ。館の中を監視しているのかと思ったら、違う。その風景は確かに館の中もあるが、森の中だったり、海の上だったり、どこかの街並であったりと、千差万別である。
「シャミィ……いや、仮面の魔道士」
 ツバサが隼の剣を召還し、構えた。
「ご苦労なことだ。全員とは言えないが、こんなところに訪れるとはな」
 仮面の魔道士の嘲るような口調の言葉に、新たな疑問が生まれた。
 全員ではない――。そう言われて部屋の奥ばかり見ていた皆が、改めて仲間たちを確認する。
 『ブレイク・ペガサス』のツバサ、ジェット、サウン。
 仮面の魔道士に乗っ取られているシャミーユの妹、セナス。
 そして『風雨凛翔』のイサ、ラグド。
「……リィダとキラパンは?!」
「つい先ほどまでは確かに後ろに」
 リィダの不幸体質は健在で、どうやら館とこの空間への移動時に彼女とそれに伴っていたキラパンだけどこか別の場所に飛ばされてしまったらしい。
 前にも似たようなことがあったな、と思い出す。今回もキラパンが一緒なのでたぶん大丈夫だろう。
「あなた達も感じたでしょうけど、この部屋に入るには切り離された空間を飛ぶことになる。運が悪ければ他の場所へ飛ばされてしまうこともあるでしょうけど、あなたのお仲間はよっぽど運が悪いようね」
 運の悪さならリィダの右に出る者はいない。
 仮面の魔道士が、鏡の一つを見る。そこに映っていた映像は雨の降る町のようだったが、すぐに切り替わった。どうやら、洞窟の中らしい。そしてその中心に移るのは、見覚えのある女と、見覚えのあるキラーパンサー。
 やはり別の空間に飛ばされていたらしいリィダは、キラパンの上で目を回しているようだ。
「リィダ! キラパン?!」
「う、あぅ……あれ、今、なんかイサさんの声が聞こえたような……?=v
 イサの声が向こうに届いているのか、リィダがむくりと起き上る。
「あれ? ここどこっすか?!=v
 鏡の向こうで慌てているリィダはいつも通りで、幸いなことに外傷などは見受けられない。とりあえずは無事らしい。
「リィダ! 落ち着いて!」
「ふぇ? うぇ? イサさん?=v
 リィダの視線がこちらを向く。
「こっちが見えているの?」
「はいっす。なんか、鏡みたいなのがふわーって浮いてて、そこにイサさんたちが見えるっす=v
 こちらから見えているように、向こうからもこちら側が見えている。空間と空間を繋ぐ鏡、ということだろうか。
「これも三界分戦の遺産の一つ」
 と言ったのは仮面の魔道士だ。
「ありとあらゆる場所を見通す、『神の目』と呼ばれる代物よ。これを使って、私は世界を監視していた」
 『願いの幸せ歌』伝説を呼び起こそうとしている者がいればそれを阻止するために。
 だがそれだと、一つの疑問が起こる。
「仮面の魔道士、何故君はこんなことをしている?」
 ツバサが問いかける。仮面の魔道士の意思は二つ。願いの幸せ歌伝説を蘇らせない、平和を望む意思だけならば、その『神の目』の使い方はあっているだろう。だが、もう一つの意思、大勢の人間に死合わせの歌を聞かせ、破滅を望む意思が表に出ている時、願いの幸せ歌伝説を蘇らせようとする行為は願ったり叶ったりのはずだ。
「この『神の目』は本来、聞くことと見ることしかできなかった」
 それが本来の使い方。それ以上の機能は備えていなかった。
 だが、今は。
「長い年月をかけ、魔力を注ぎ込み、改良し続けたのよ。その成果が今、ようやく実った」
 一方的に見る、聞くだけではない。
 見せる、聞かせる。
 この二つが新たに備わった神の目は、世界中のあらゆる場所へその声を届かせることができる。
 その意味を、イサたちは――リィダを除き、全員が理解した。
「『死合わせの歌』を世界中に流すつもりか!?」
 ツバサの悲鳴のような声に対し、仮面の魔道士は正解だと言うように口元をにまりと歪ませる。
 破滅を望む意思も願い幸せ歌伝説復活を阻止しようとした理由。それは、もし願いの幸せ歌の本当の意味に辿り着いたならば、それの対抗策や更なる封印が施されるかもしれない。
 そんなことをさせるわけにはいかない。死合わせの歌の全世界発信の時まで、あくまで幸せな歌として話の片隅に転がっていなければならないのだ。
 全ては、この時のために。
「予定変更だ。あの日記のことが気になって真の願いとやらを聞き出そうとしたけど」
 ツバサが剣を持つ手に力を込めた。
「今、死合わせの歌を唄われちゃ困るもんね」
 イサも飛龍の風爪を仮面の魔道士に向けて戦闘態勢を取る。
「まずは唄えないくらいに魔力を削らせてもらう!」
 仮面の魔道士も所詮は魔力の塊で動いている。その魔力を削り取れば動きを封じられるのは実証済みだ。
 ツバサが地を蹴る。
「させませぬ!」
 どこに潜んでいたのだろうか。仮面の魔道士とツバサたちの合間に、あの執事風の男が割り込んだ。手には長剣が握られている。
「またお前か!」
 ツバサの足が止まる。
「ラグド!」
「御意」
 イサの呼びかけに、ラグドが応える。イサは何かを指示していたわけではない。イサはラグドの名を呼んだだけだ。だが彼には、イサが求めたことなど容易に理解できていた。
 止まったツバサの横をラグドの巨体が通り抜ける。地龍の大槍を繰り出し、執事風の男へ鋭い一撃が伸びた。男がそれを長剣で受け止めた。
「おぉぉおおぉぉ!!」
 防がれた一撃をそのまま押し込み、さらに力を込めて男を右側へ吹き飛ばす。
 それを見たツバサも、理解した。
「ジェット! サウン!」
 彼らもまた、ツバサが求めていることを把握している。
「あいよ」
「うむ」
 ジェットとサウン、そしてラグドが吹き飛ばされた男の方へ向かう。
 あの男は、この三人に任せておけばいい。
 イサとツバサの相手は、仮面の魔道士だ。
「私と戦うか。ならば聞かせてやろう、死へと誘う唄を!」
 仮面の魔道士が歌を唄おうとする。聞く者の命を奪う、死合わせの歌。それは歌う本人にも作用する。
 しかし仮面の魔道士の本体は、あくまであの仮面である。死ぬのは、肉体として操られているシャミーユの身体だけだ。
「させない!」
 イサとツバサが飛び出そうとした矢先、背後から仮面の魔道士の声ではない唄が流れ始めた。
「セナス?」
 唄っている。セナスが、力強く、優しく、美しく唄っている。
 聞きほれてしまいそうな歌声が、この部屋に満ちて行くかのようだ。
 それを聞いて、忌々しそうにしているのは仮面の魔道士ただ一人。
「魔歌封じの歌か」
 沈黙呪文(マホトーン)のようなものだ。通常の魔法こそ防げないものの、魔法の歌を封じる力があるため、仮面の魔道士が唄おうとすると、この歌声に乱されて上手く唄うことができず、旋律を完成させることができない。これでは、いくら魔力を込めた声でも死合わせの歌として成り立たないのだ。
「今のうちです!」
「あ、そっか」
 イサはセナスに言われ、つい彼女の声に聞き惚れてしまっていた自分がいることに気が付いた。
 飛龍の風爪の狙いを、仮面の魔道士に定める。
 先に動いたのはツバサだ。
「歌がなくとも」
 仮面の魔道士の手元に、魔力が収束する。
 急激に圧縮された魔力の渦。それを一気に解き放つ時、膨大な熱量を伴う爆発が発生する。
極大爆撃呪文(イオナズン)!」
 イサより早く動いていたツバサの剣が仮面の魔道士に届くより先に、爆発呪文が炸裂した。


 吹き飛ばした男に追い打ちをかけるようにラグドは突進をかけた。
 それにジェットとサウンが続く。
「バイキルト! そんで、ピオラ!」
 立て続けにジェットが筋力増強呪文と速度上昇呪文を即発動で唱える。対象はラグドだ。
 補助魔法を受けたラグドの一撃が、男を襲う。
 しかし男は既に態勢を立て直していたようで、ラグドの再びの攻撃を防いだ。
 こうして刃を直に交えて、ラグドは感じるものがあった。
「お前は――」
「邪魔を、するな! 私は、あの方の望みを叶えねばならなない!」
 ラグドの言葉を遮った男の激昂に、感じたことを確信する。
「やはりお前は、人間ではないな」
「それがどうした」
 見た目姿は人間そのものだ。だが違う。
 今こうして命のやり取りになるような戦いをしているというのに、まるで生気が感じられない。
「あの日記の筆者。その魂か」
 人間の姿でありながら人間ではない。目の前の男は、生きてはいないのだ
「ああそうだ。私はかつての私が生み出した、残留思念のようなもの。私が行うのは、常にあの方の望みを叶える事だ」
 仮面の魔道士の望み。『今の』仮面の魔道士の望みは、邪魔な人間たちの排除だろう。
 しかしそれも、まだ片方の意思による願いだ。
「かつてのお前は、二つの意思が辿り着く願いとやらを知ることができず、その命を終わらせた。だがこうして残留思念となることで、永い時をかけて模索し、叶えようとしていたのだろう」
 それがこの男の正体。常に仮面の魔道士の望みを叶えようとする存在だ。
「かつての私が残した日記だけで、よくそこまで理解してくれた。このような欠陥品しか作れなかったかつての私も、喜ぼうというものだ」
「欠陥品?」
「私には『考える事』や人としての感情が不完全のままこの世界に残された。故に、いくら時をかけようと、答えを導き出すことはできなかった」
 永い時を共にすれば、二つの意思が辿り着く願いを導き出すことができるかもしれないと思ったが、肝心な考えることが欠落したこの男は、ただただ与えられた命令を実行するだけの――否、与えられた命令ではなく仮面の魔道士が願ったことを何でも叶えようとするだけの存在となってしまっていた。
「だから未だに分からない。あの方の、二つの意思が辿り着く願いというものが」
 故に、今は今の仮面の魔道士が望むことを行う。
「貴様たちの排除。それが今のあの方の願い!」
 男がラグドに斬りかかる。
「ラグド! 後ろに大きく跳べ!」
 ジェットが叫びつつ、火炎弾呪文(メラミ)を解き放つ。
 理由など考えない。即席とはいえ、仲間の声を信じ、ラグドはできる限りの力を込めて、後ろに跳躍した。入れ替わりにジェットの放ったメラミの火炎弾が横をすり抜ける。
「こんな炎で」
 男はメラミの炎を直撃することなく、長剣で弾いた。しかしその動作のおかげで一度だけ動きが鈍る。そこに、サウンの魔法が姿を現した。
束縛多重結界(クモノライン)!=v
「これは?!」
 男の足元には蜘蛛の網のような線が浮き出て、そこから縦に伸びた光が男を囲う。
 結界魔道士の魔法は発動に時間がかかるうえ、発動場所も限定されるが、上手く発動できた時は強力だ。サウンが発動させたのは、相手の動きを封じ込める結界魔法である。
 いくら残留思念のようなものといえ、実体を持っているのだから、この束縛魔法も有効のようだ。
 これで男の動きは一時的にだが封じた。
 後はイサたちが仮面の魔道士を倒すことができたら――。
 そう思ったのと、仮面の魔道士が放ったイオナズンの爆撃音が轟いたのは、ほぼ同時だった。


 爆発は、ツバサを中心に起こるはずだった。
 しかし実際は違う。ツバサを中心に、その左右の空間で爆発を起こしていた。
 ツバサは、爆発する直前に剣を一閃させただけだ。
 だがその一閃こそ、魔法を切り裂く一閃であった。
「僕がただの魔法剣士かと思ったかい? いや、君のシャミーユの記憶が僕を魔法剣士と教えていたんだろうが、僕だって日々修練を積んでいるんだ」
 かつてのツバサの冒険職は、魔法剣士であった。魔法を使いながら剣で攻める姿は魔法剣士のそれだが、今の冒険職は魔法剣士ではない。
 魔封剣士。
 魔法を滅し、封じる剣士。それこそが、ツバサの現在の冒険職である。魔封剣士は精霊魔法に対抗する力を与えてくれる。とはいえ、イオナズンほどの魔法を切り裂くことができたのは、単純にツバサ自身の実力が高いこともあったのだろう。
 仮面の魔道士が次の魔法を繰り出すより速く、ツバサが間合いに入る。
「っ!」
 再び一閃。仮面の魔道士を斬りさく――かのように見えた一撃は、しかし空を斬る。
 そして、目の前にあったはずの仮面の魔道士は、霧のように姿を消した。
幻覚呪文(マヌーサ)?!」
 目で捉えていたのは魔法で作り出された幻覚だった。ならば本物はどこにいるのか。
 探すよりも早く、考えるよりも速く、イサは直感的に、こうしなければならない気がして、拳を全力で振り向きざまに振るった。
 何もなければ何の意味もないことである。後方にはセナスが控えているが、距離からして当たるはずがない。当たるとすれば。
「ぐっ」
 仮面の魔道士にイサの拳が当たった。仮面の魔道士が狙ったのは、ツバサでもイサでもない。セナスだったのだ。彼女を仕留めれば、死合わせの歌で一掃できると考えたのだろう。
 一度捕えた拳を、ただの一撃で終わらせるつもりは毛頭ない。
 先の一撃はただの勘だったが、今度は明確な意思で放つ。
「風牙・連砕拳!」
 連続の六度の打撃。マヌーサによる幻覚ではない。全てに手応えがあった。
 とどめというほどではないが、少しでもセナスから遠ざけなければいけない。イサは風を圧縮させた。
「風連空爆!」
 風の爆発を起こし、仮面の魔道士を吹き飛ばす。
「セナスには手出しさせないよ」
 これほど連続の攻撃を受けたのだ、いくら仮面の魔道士が膨大な魔力を持つと言っても、肉体の方がついてこられるはずがない。すぐには動けないはずだ。
 その思惑は、しかし冷徹な言葉によって甘かったことを知らされる。
「その娘を守りたいという願い≠ヘ叶わない」
 吹き飛ばしたはずの仮面の魔道士が、すぐ背後から聞こえた。
 底冷えするような声は、背中が一瞬で凍りつくようであった。
 振り向くことさえ困難になっている。
 今更気付いた。イサは再び麻痺の魔法の支配下になってしまっていた。そして、今しがたイサが吹き飛ばした仮面の魔道士。あれは本物ではない。
「(しまった! 魔法人形?!)」
 仮面の魔道士はイサが反撃してくることも見通していたということだ。
 ツバサは前に出すぎていて間に合わない。イサは動けない。セナスを守るものは、誰もいなくなっていた。
 いくらセナスも冒険者とはいえ、今は唄っているだけの吟遊詩人だ。無防備な彼女の息の根を止めることなど容易すぎる。
 仮面の魔道士がセナスの前に立つ。
 セナスは逃げない。
 逃げて!と、イサは声を出すことさえできない。
 セナスは逃げない。
 ツバサが駆け出そうとするが、彼もまた麻痺の魔法の支配下に陥っていた。
 セナスは逃げない。
 唄うことをやめてせめてラグドたちのところへ全力で走れば助かるかもしれないのに。
 セナスは逃げない。
 仮面の魔道士がありったけの魔力を込めてセナスへ向ける。
 セナスは逃げない。
 セナスは唄う。
 セナスは真っ直ぐ仮面の魔道士の顔を見つめた。
 仮面の魔道士はただその魔力を魔法に変換して解き放つだけでいいのに、それをしない。

「――その目をやめろ」

 仮面の魔道士が苛立ったように言う。
 セナスは真っ直ぐに仮面の魔道士を見つめている。
 その目は、悲しそうでもあり、哀れむようでもあり、優しそうでもあり、諭すようでもあり、怒っているようでもあり、嬉しそうでもあり、無限の印象として捉えることができた。
「ねぇ、あなたの本当の願いって」
 セナスは唄をやめた。そして仮面の魔道士に話しかける。
「自分自身を、誰かに止めてほしかったのではないのかしら」
 仮面の魔道士はすぐに答えない。否定も肯定もしない。
 だからか、セナスは続けた。
「見えない涙をあなたはいつも流していたのでしょう。声にならない苦しみがあったのでしょう。本当は気付いているのでしょう。ずっと二つの意思が反発しあって存在する自分自身という現実を壊したかったのでしょう」
 己の存在が消えること。それこそが、二つの意思が辿り着く願いだと、セナスは言う。
「何故そう思う」
 セナスは既に魔封じの歌を止めている。仮面の魔道士の行動を阻むものは何もないというのに、彼女に問いかけた。
「あなただってわかっているはずよ。お姉ちゃんの身体を持っている、あなたなら」
 そう言って、セナスは手を己の胸にあてた。
「お姉ちゃんに訊いたことがある。なんでお姉ちゃんの歌は優しくて素敵なの? って」
 仮面の魔道士は、シャミーユの記憶をも持っている。だから、その答えを知っている。知っているだろうが、セナスは続けた。
「そしたらお姉ちゃん、誰かのために歌うからだよって言ってくれた。私の好きな歌で、聞いてほしい人に幸せになってほしいからだよって。だから――」
 セナスが優しく微笑む。
「だから、あなたも本当はこんなことしたくないんでしょう? 私たちのように歌が大好きだったんだから、わかる。大好きな歌で、人を不幸になんてしたくない。だって、歌うことは人を幸せにするのが目的なんですもの」
 死合わせの歌はその理念の逆を行く。
 復讐の心に囚われ、破滅の意思は全世界を歌による死を振りまこうとしていた。
 今までそれをやらなかったのは、準備ができていなかったから――というのは言い訳だ。そういった建前のもと、ずっと行動には移さなかった。
 しかし準備は整いかけていた。『神の目』の機能の拡大が、終わろうとしていた。
 だから仮面の魔道士は表舞台に現れたのだ。
 ベンガーナの吟遊詩人を一斉にさらい、国自身に揺さぶりをかけることで、自分を止めるために、優秀な冒険者が派遣されるだろう。
 そしてその者たちが、自分を止めてくれるはずだ、と。
「私は、私は、私は――」
 否定の言葉を口にしようとしたのか、それとも別のことを言おうとしたのか。
 どちらにせよ、仮面の魔道士の言葉はそこで途切れた。
 次いで、カツン、と乾いた音が響く。
 仮面の魔道士の仮面が、外れて地面に転がり落ちたのだ。
 シャミーユの顔が露わになる。彼女は、両目から涙を流していた。ただ表情は呆然としており、涙を流しているという自覚はなさそうだ。
「お姉、ちゃん……?」
「セナス……?」
 セナスの声に、シャミーユが返す。
 仮面の魔道士の気配が、なくなった瞬間だった。


次へ

戻る