第1回 形外会 昭和4年12月1日

 

 本会は香取、友田、深山氏らが発起人(ほっきにん)となり、これまで森田先生ところで入院治療、修養した人びとが集まって懇話会を(もよお)そうという事から成立するようになった。これまでも、時どきこの様な話は出たけれども、今度(このたび)初めて実現をみるに至ったのである。

先生宅での修養療法は大正八年四月から始まり、今までに三百七十 人ばかりに達し、その内、東京(およ)近辺(きんぺん)にいるものが百人()らずある。

 

会の名称(めいしょう)については二,三の案が出て、森田先生は神経質礼賛会(れいさんかい)としてはいかがかとの事であったけれども、結局、森田先生の雅号(がごう)(とっ)って形外会(けいがいかい)と称する事に(さだ)めた

本会の会員は、森田先生のところで修養を受けた者に限るとし、役員は森田先生を名誉会長、医員(いいん)諸君(しょくん)顧問(こもん)()し、会長名、幹事二名を置く事とした。森田先生の指名で、香取(かとり)(しゅう)(へい)氏を会長に友田(ともだ)恬与氏、深山(ふかやま)正明(まさあき)氏を幹事に定めた。

例会は毎月第三日曜・午後二時よりとし、年に一、二回の大会を開く事とした。もし出席者が二五人以上の時は、(となり)蓮光寺(れんこうじ)を借りて会場とする事とする。会費は普通一円、学生五十銭とし、夕食をともにする事とした。

 

のち森田先生は二、三の会員から質問させ、その内から適切なものを選びて、これに解説を加える事となり、ついに(ぼう)(くん)の結婚問題について、これが解決を示されたのでる。事件はその縁談(えんだん)(すで)に進行して結納(ゆいのう)を交換した後、ある精神的葛藤を起こして、自己がこの重大なる責任を遂行(すいこう)しうるや(いな)やに迷いて、挙式(きょしき)を中止せんかと考えた事である。これに対して先生は、金時計を買わんとして決行(けっこう)に迷うとき、あるいは学校卒業の学生となりて、初めて自己(じこ)の性格がこの職業に対する(てき)不適(ふてき)の事に思い当りて、学校を(てん)ぜんとする時の心理を分解説(ぶんかいせつ)(めい)して、この結婚は当然(とうぜん)決行(けっこう)すべきであると結論されたのである。

 のち夕食に移り、思い思いに歓談(かんだん)して散会(さんかい)した。  

          (『神経質』第1巻、第2号・昭和5年3月)


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