神経質―それは、従来・学者の唱なえて居る神経質とは、意味がち
がう。それは従来のは、「鯨も海亀も、共に、魚の類である」といつた位の程度のものである。この故に正確には、「森田の神経質」といはなければ、其限定した内容は判らない。
「森田の神経質」は、余が人の気質・即ち精神的傾向を七種類に分けた内の一つであって、之が病的になれば、従来のいわゆる神経質衰弱的になる。
この神経質衰弱も、余の唱ふるものは、従来のものとは、全く其解釈がちがう。それは恰も、従来の神経衰弱では、太陽が天空を運行す
るものと解釈していたのを余の説では、その太陽が動くが如く見ゆるは、我地球が自転するがためである・と解するようなものである。
それで現在、之に悩んでいる患者は、神経質とか神経衰弱とか・いへば、人聞きが悪く・肩身が狭いかと思う。それが、余の精神修養療法によって、一たび全治すると、初めて自分が、神経質の素質に生まれたのは、かえって、恵まれたる運命のもとにある事を悦び・寧ろ誇らしく感ずるようになり、これ迄、神経衰弱と思って居たのは、実は神経の衰弱でもなければ・身体の虚弱でもなかった・という事を体験会得するようになるのである。
斯くいふ・余の神経質・讃美の言に対して、或一部の机上論者は、之を詭弁
余のいふ處は、ただ野口英世や・二宮尊徳が、其貧乏に生まれた事
が、却て彼等の誇りとなり、
白隠の神経衰弱や・親鸞の強迫観念が、決して肩身が狭く・隠しだてするにも当たらぬ・と同様である。若し野
口が、貧乏でなかったならば・あれだけの努力心は育たなかったろうし、親鸞に、罪悪恐怖の苦悩がなかったならば、あの安心立命の境地を悟る機会はなかったであろう。
斯くいふとて、常識ある人は、決して世の中に、貧乏や苦悩を讃美して、世人 に一生の清貧や・苦行を奨励すべき筈のものではあるまい。
凡そ学者は、学者になれば・なるほど、言論の言葉尻に捉われるから、いやである。
さて、神経質が、頭痛や不眠に悩むのは、ただ其の悩むがために悩むのではない。もっと・ほがらかに・何とかしてクリーアに、思う存分勉強がして見たいという欲望に燃ゆるがための・反面の悩みである。
又神経質が、自ら劣等感に駆られ、或は種々の強迫観念に苦しみて、我と我身をかこつのは、単に劣等のために卑屈となり、煩悶のために、自暴自棄となるのではない。この一生をただで終わりたくない・偉くなりたい・真人間になりたい・との憧れに対する・やるせない苦悩である。
若し之が、余の分類による意志薄弱性資質者ならば、頭痛がすれば、其のまま安逸惰弱となり、恥ずかしければ、人前に出ず、苦しい事があれば、逃げ出す。シャー シャー として其処に、何等の精神的葛藤の苦悩はないのである。
神経質が、種々の症状に悩むのは、其限りなき欲望に対する過渡期であり、終には悟りに達すべき迷妄の時期である。それは、自分の苦 悩のみを誇張して、之に執着し、自分の本来の心を自覚する事の出来ない時期である。若し之が、或機縁に接して、一たび生の欲望に対して、心機一転した時、初めて其処に、従来の苦悩が雲散霧消するの
である。
そして一たび 、此の契機に触れて、自覚を得た後には、前の苦悩は、夢の如く思い出され、あの苦悩を去らんがために、百方心尽しした事の・馬鹿さ加減を知ると同時に、方向転換して、ひたすらに向上心に駆られて、勇猛心を起こし、苦痛困難を度外視して、努力奮闘するようになる。従って、悠々精神修養に興味を起こすようになる事、恰も「欲の袋に底がない」という風になるのである。
この心境を、意志薄弱性のものと比較すると、其差別が、如何にも、あざやかである。意志薄弱性の者には、この修養の問題が、全くつまらぬ余計な事のように思わるゝ事、恰も「豚に真珠」・「猫に小判」という風である。
更に喩えれば、「林檎が落ちるのは何故か」とか・「鉄瓶の蓋が、どうしてガタするか」とかいう問題が、俗人には、全く馬鹿げた事であるが、 大科学者には、之が或る獲がたき契機から想到したる・大いなる興味であり、
之がためには、如何なる努力をも犠牲にしようとする問題である。俗人は、「林檎が落ちるのは、ソリャ昔から、きまりきって・いるじゃないか、ハッハヽヽ」と笑い、或いは生死の問題に対しても、「どう思った処で、人生はなるようにしか・ならないだろう」とゲラ〳〵と嘲るようなものであろう。
形外会・座談会というものヽ初めて成立したのは、昭和四年十二月であった。神経質で、余の処に入院修養した全治者が、発起して、之により、益々精神修養に精進せんとしたものである。
爾来、毎月開会して、其の後、会員の範囲も広まりて、今日に至り、其談話記事は「神経質」雑誌に連載されてきたのである。
尚、其記事の内容は、其座談筆記を其のままに・うつしたのではない。
其内から余が、自ら取捨選択したもので、神経質の症状や療法に関して、余り立ち入りたる事は、之を著書にゆづりて、ここに省く事とし、只其内、普通の人の気の引くような珍しいものや、
神経質に限らず、一般の人の修養の助けとなるものを選び、更に説明を要する所は、委しく書き加える労をとったものである
其ためでもあろうか、この記事は、神経質ばかりでなく、他の一般の読者からも好感を以て迎えられ、又人々から、多くの賛辞を得たものである。
今度、之を出版」する事になったのは、是等の人々のおだてに乗ったがためである。先ず第一編として、適度の分量を載せる事にした。
若し其賛辞が、単なるお世辞でなく、幾らか読者の参考ともなり、読者をして、精神修養という事の・根本義を誤らざらしむる資料ともならば、編者の本望、これに越した事はない。従って第二編も、つづいて出される事であろう。