『神経質(しんけいしつ)療法(りょうほう)への道』序文(じょぶん) より


それで現在、(これ)に悩んでいる患者は、神経質とか神経衰弱とか・いへば、人聞きが悪く・肩身(かたみ)(せま)かと思う。それが、余の精神修養療法によって、一たび全治すると、初めて自分が、神経質の素質に生まれたのは、かえって、恵まれたる運命のもと(・・)にある事を(よろこ)び・(むし)ろ誇らしく感ずるようになり、これ(まで)神経衰弱と思って居たのは、実は神経の衰弱でもなければ・身体の虚弱でもなかった・という事を体験(たいけん)会得(えとく)するようになるのである。

 

 

 さて、神経質が、頭痛や不眠に悩むのは、ただ其の悩むがために悩むのではない。もっと・ほがらかに・何とかしてクリーアに、思う存分勉強がして見たいという欲望に燃ゆるがための・反面の悩みである。 

(また)神経質が、(みずか)劣等感(れっとうかん)()られ、(あるい)は種々の強迫観念に苦しみて、我と我身をかこつ(・・・)のは、単に劣等のために卑屈(ひくつ)となり、煩悶(はんもん)のために、自暴自棄(じぼうじき)となるのではない。この一生をただで終わりたくない・(えら)くなりたい・真人間(まにんげん)になりたい・との憧れに対する・やるせ(・・・)ない苦悩である。

   若し之が、余の分類による意志薄弱性資質者ならば、頭痛がすれば、其のまま安逸(あんいつ)惰弱(だじゃく)となり、恥ずかしければ、人前に出ず、苦しい事があれば、逃げ出す。シャー シャ として其処(そこ)に、何等(なんら)精神的(せいしんてき)葛藤(かっとう)苦悩(くのう)はないのである。 

神経質が、種々の症状に悩むのは、(その)限りなき欲望対する過渡期(かとき)であり、(つい)には(さと)りに達すべき迷妄(めいもう)の時期である。それは、自分の苦 悩のみを誇張(こちょう)して、(これ)執着(しゅうちゃく)し、自分の本来の心を自覚する事の出来ない時期である。若し()(これ)が、(ある)機縁(きえん)に接して、一たび生の欲望に対して、心機一転した時、初めて其処(そこ)に、従来(じゅうらい)の苦悩が雲散(うんさん)()(しょう)するのである。 

 そして一たび ()契機(けいき)()れて、自覚を得た後には、前の苦悩は、(ゆめ)(ごと)く思い出され、あの苦悩を去らんがために、百方(ひゃくかた)(こころ)(つく)た事の・馬鹿(ばか)加減(かげん)を知ると同時に、方向転換して、ひたすらに向上心に()られて、勇猛(ゆうもう)(しん)を起こし、苦痛(くつう)困難(こんなん)度外視(どがいし)して、努力(どりょく)奮闘(ふんとう)するようになる。従って、悠々(ゆうゆう)精神(せいしん)修養(しゅうよう)に興味を起こすようになる事、(あたか)も「欲の袋に底がない」という風になるのである。

 

 形外会(けいがいかい)座談会(ざだんかい)というものヽ初めて成立したのは、昭和四年十二月であった。神経質で、()(ところ)に入院修養した全治者(ぜんちしゃ)が、発起(ほっき)して、之により、益々(ますます)精神(せいしん)修養(しゅうよう)精進(しょうじん)んとしたものである。


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