SUNSHINE -7-
東海道は、現実主義者だった。
そして、己のやりかたに確固たる信念を持っていた。
だから、何があろうと現実は現実として目をそらさず立ち向かう。
そのうえで、自分の信じる道を突き進む。
つまり、彼の辞書に躊躇や後退という言葉はない。
時にはそれが高じて自らを痛めつけ倒れたり、心身ともに弱り果てることもあった。
それでも、これまで東海道がへし折れずにやってこられたのは、何事にも大雑把(という認識)で底抜けに明るい山陽がそばにいたから。
そして、黙って自分のすべてを受け止め、癒し甘やかしてくれる山形という存在があったから。
しかし、もはや東海道はその両方の後ろ盾を失いつつあった。
山陽との間にできた溝を埋めるべくやってきた新大阪では九州の出現に目的を阻まれ、かと言ってこのまま東京に──東日本の仲間の元におめおめと帰ることなどできようもない。
山陽から東の居場所を奪った東海道は、奇しくも自分自身が西にも東にも行き場を失った格好になっていたのだ。
──それならば──
少し休んで気分が回復した東海道は、山陽の姿を求めて再びホームへと足を向けた。
──それならば、自分のやることは決まっている。
──いつものように、現実を見据えて前に進むこと。
今日という今日は、ついに心がへし折れるような事態に陥るかもしれない。
しかし、このまま、何もかもをうやむやに背中を向けることなど出来る訳もない。
走り続けなければならないのだ。
自分が東海道新幹線である限り。
そしてそこには、必ず山陽新幹線の存在が。
もはやヤツを抜きにして、己の鉄道としての歴史は語れない。
認めよう。それが現実だ。
だから、何があろうと山陽と直接話し合わなくては。
その先にあるものなど、今はどうでもいい。
自分に一番大切なのは、ここにある、この、今まさにこの瞬間の現実だ。
そう──茶色の髪の相棒を求める東海道の視界に、記憶の泥沼からはい出したあの眼鏡の男の顔が飛び込んできたという──この現実ですら。
「やぁ、はと…おっと失礼、今は東海道新幹線、だったな」
「つば……九州」
「随分と久しぶりじゃないか、会えて嬉しいよ」
「……」
東海道は、九州が差し出した握手の手を、黙って握り返した。
短い握手の生暖かい感触に、ぞわりと背中まで嫌悪感が走る。
本当は塩の塊でもこの顔に塗り付けてやりたいところだが。
今はそれどころではない。
今はとにかく山陽を──
「おや、少々顔色が良くないようだが?働き過ぎかね?」
「…別に。では、失敬…」
「それとも、オトモダチの山陽新幹線と何かあったのかな?」
「──!?」
ぴくり、と東海道の体が僅かに硬直したのを、九州の眼鏡越しの視線は見逃さなかった。
「ふん、相変わらず青いな。秘め事が苦手なところは全然変わらん」
「…貴様には関係ないことだ」
「そうかね。まぁいい。いずれあの山陽も私のものになる」
「…何?」
「なかなかいい路線だ、西日本はな。本州制覇への足がかりにはぴったりだ」
「寝言は寝て言え」
「その証拠に、もはや山陽の心はこちらになびいているのではないか?ええ?」
「──」
「貴様の矮小なふるまいに振り回されるのには辟易したのではいのかね?彼」
「──だま」
「ほい、もう黙って、九州新幹線殿」
ペシン、と乾いた音がして、九州の後頭部に平手が飛んだ。
「いたっ!」
「──山陽!?」
「あのさー、勝手に人のこと切り売りすんなってんだろ。マグロじゃねーんだから」
呆れたような、困ったような、東海道のよく見知った山陽の顔が、九州の背後にあった。
「ふん、私は本当のことをお前の代わりに言って──」
「ヘイヘイ、分かったから。気が済んだら会議室行って。もうすぐ時間だろ。九州から高い金使って何しに来てんだか」
「そうか、もうそんな時間か…ではな、はと、じゃない、東海道」
「きさ──」
「だーっ、もう!早く行けって!」
山陽は九州の背中を駅舍に向かって突き飛ばすと、今度は東海道を振り返った。
久しぶりだ、こんなに近くで向き合うのは。
話したい事は山ほどある。駆け寄って、確かめたい事も。
でも──と、山陽は自分を制した。
東の仲間に約束したじゃないか。
ちゃんと整理して帰るって。自分の気持ちも。
今はまだダメだ。冷静に話す自信はない。
「…お前もさ、ここにいたら無駄に腹立つだけだろ。もう東京戻んな」
そう、今はこれが一番いい。
もうちょっと距離を置いて、な。
東海道も今は九州のせいで不機嫌極まりないだろうし。
「またそのうちちゃんと話そう、山形たちにもよろしく。じゃあな」
そして片手を軽く上げると、営業スマイルを浮かべて別れを告げた。
「──さんよ──」
──何故?何故そんな風に笑う?
東海道の心の中で、張りつめていた何かがぷっつりと音を立てて切れた。
違うだろう?
お前はそんな──
だってお前は──
「…ダメ、だ」
「え?」
低く絞り出すように、しかししっかりした声で、東海道は言葉を続けた。
「帰らな、い」
「…東海道?」
「おまえ、が」
耳鳴りがする。
また視界が回り出す。
「何故だ、どうして、そん、な」
気持ちが悪い。立っていられない。
「お前が、一緒、で、ない、と──」
倒れる──
と、思った次の瞬間、東海道の身体はがっしりと長い腕に支えられていた。
「東海道」
耳元で山陽の声がする。いつもの、あの懐かしい声が。
「このままオレにしっかり掴まって歩け。今すぐ休める場所に連れて行ってやる」
「…う、む」
「ちょっと我慢しろよ。こんなホームじゃ担ぐ訳にもいかんしな」
そして、新大阪駅の一番奥まった、関係者以外に立ち入れない小部屋に来ると、手近なソファに横たわせる。
山陽は給湯室に駆け込むと、すぐに冷たい濡れタオルを用意し、東海道の頬に当てた。
「おい、しっかりしろ」
「…ああ…」
「何かあったのか?東京で」
──!?
──何を言ってるんだこの男は。
東海道は呆れたようにタオルの隙間から山陽を見たが、本人は至って真剣に言っているようだった。
「山形か?秋田?…それとも長野?」
「…ちが、う」
「だって、オマエ、ひどい顔してんぞ。一体何──」
「お前が!」
東海道は、山陽の言葉を遮るように叫ぶと、身体を起こし、濡れタオルを投げつけた。
「お、おい!?ちょ」
「お前がいないからっ!」
こうなったらもう止まらなかった。
今まで我慢して来た涙が、堰を切ったように溢れ出す。
頬が熱くなるのも再び目眩が襲って来るのも構わず、東海道は怒鳴り続けた。
「お前がいないからだろう!山陽のバカ!どうして東京に来ないんだ!どうしてここにいるんだ!お、俺を置いて!」
「──!?」
「山形は関係ない!他の誰も関係ない!お前だ!お前がいないと!」
「とうか──」
「お前がいないと俺はどうすればいいんだ!?どうやって走る?一緒に世界一速く走るって言ったのはウソか!?」
「──!?──お前、それ──覚え」
「当たり前だろう!他の誰もお前の代わりになんてならん!お前は、山陽は、JR西日本の新幹線は、世界にたった一人だけだ!なのにどうして去って行くんだ!お、俺、おれのもとか──」
「東海道!」
泣きじゃくる東海道の顔が、山陽の胸に押し付けられた。
胸の鼓動が早い。手が小さく震えているのが分かる。
「オレはここにいんじゃん!だから泣くなよ!」
山陽の瞳からもまた、ぽろぽろと涙の粒が零れていた。
その水滴が、東海道の制服を遠慮なく濡らす。
ああ、温かい。
力強い。
「山陽、う──」
「東海道、なぁ」
良かった、戻って来た──自分の欲しかった現実。何よりも大切な現実。
「ごめん!ごめんって!──オレ、そんなつもりじゃ」
「…っく…う…ッ…う」
「おいー、頼むから」
「お、男の癖に泣くな、山陽!」
「それをどのツラ下げてお前が言うんだよ!」
そうして、ひとしきり、2人で泣いた。
まるで子供のように。
最後にこんな風に泣いたのは、いつだっただろう。
そういえば、山形がやって来るまで、東海道が泣き出すと、山陽は諦めたようにそのまま見守っていたものだ。
泣きたいだけ、自由に泣かせて。思う存分泣いて。
ようやく気が済むと、そこには、困ったように笑う、山陽がいた。
思い出した。
そうして過ごしていた、2人の高速時代を。