I don't know, You know -3-
それから1日、1日と日は過ぎていったが、一向に東海道の記憶が戻る気配はなかった。
東海道山陽新幹線は、孤軍奮闘する山陽の働きで表面上は何事もなかったように運行されていたが、このままだといずれJR東海・西日本の両社にも、所属する在来線たちにも、今回の事件がバレるのは必至。
もしそうなれば、当然、JR東日本にも事と次第が報告され──
「…上越の責任問題は免れんな」
「責任って…大袈裟だよ!もともとは単なる悪戯じゃない!」
「……」
「上越に悪気があったわけじゃねぇべ、俺たちがそのへんをきっちり証言してやんねぇと」
「それはもちろん!そうするよ!…だけど…ねぇ、東北…」
「……」
ヘタをすると、JRグループ間の確執を招く大事態。
じょじょに重苦しいムードに包まれる東の高速鉄道たちは、自然、東京に軟禁状態の上越から距離を置くようになった。
「…どうしてボクって…いつもこうなるんだろうなぁ…」
「ん?何か言ったか、上越?」
「…ううん、何でもないよ、東海道」
こうしてすっかり孤立してしまった上越だったが、何故か被害者であるはずの東海道だけが今まで通り──いや、今まで以上に足繁く部屋に顔を出した。
そして部屋にこもり、西日本と東海のすべての書類を2人だけで黙々と処理する。
事件以来、これが彼らの日常の光景となっていた。
「上越、ここの…この数字はどこから引用するんだったかな」
「ああ、それはね、前月の表の2番目の…うん…この枠を使って」
「ああ、そうだったな、ありがとう」
「…ねぇ、東海道…何度も言うけど、キミがこんなことをする必要はないんだからね」
上越は手元の書類の束を分別し終えると、ふーっと大きく息をはいて体を伸ばした。
同じ姿勢を続けたせいか、ぼきぼき、と、肩や腰から悲鳴が上がる。
「ボクにはキミがここにこうしている訳が分からないよ、全然」
「訳か…うーん、何かな…何故かここにいたいというか…いや、いた方がいいような気がするんだ」
「それはつまり、ボクみたいなのを1人で放っておけないってこと?」
そういうところは、どんなときでも“東海道”らしいんだねぇ。
上越はつい口元が綻ぶのを感じていた。
「いや、正直な話をすると、他の皆といるとこう…気を遣われているのがひしひしと伝わって申し訳なくて…その点、上越といると不思議と落ち着くというか」
「それって、ボクには全然気を遣ってないってことじゃない?」
「あっはは、そういう訳では。気を悪くしないでくれ」
「…だからさ…それはコッチのセリフだって…しつこいようだけど、ボクはキミの記憶を奪った張本人なんだよ?」
「それについてはもういい。これは事故だ。これ以上自分を責めないでほしい」
「……お優しいことで」
本物の東海道ならきっとこうはいかないだろうな。
さんざ説教して怒鳴りつけて責め立てて──
いや、どうなんだろう。
もしかしたら、今、ここにいる東海道は、東海道の心の奥にいるもう1人の彼なのかもしれない。
つまり、本心ではこんなことを思っているという……
──はっ!バカバカしい!ありえないね!
「とにかくもう手伝わなくっていいってば。これは、キミのことを傷つけたボクに対する罰なの。まぁ、もっと本格的な罰がこの先待ってるのは確実だけど…」
「心配するな、私もちゃんと皆に言ってやるから」
「…言うって何を?」
「上越が、どれだけ親切で良い人だということを」
親切で?
良い人?
──本当に打ち所が悪くてバカになったんじゃないのか?
「あのね東海道、キミが何をどう勘違いしているか知らないけど…」
「勘違いじゃない。今のは私の正直な気持ちだ。上越は自分のやったことを言い訳もすることもなくこうやって黙々と己の罰を受け入れて。偉いと思う」
「……」
「私はこうなって以来、ずっとキミと一緒に過ごしてきた。キミは記憶がなくなって右も左も分からなくなった私を、罪悪感以上の思いやりを持って接してくれたと思っている」
「…そう?」
「それにキミの指導はとても分かりやすい。記入の仕方、手順の説明、諸注意…どれも一度聞けば忘れない。素晴らしい指導力だ」
「…そりゃどうも…」
「キミが長野の世話を任されている理由がよく分かる」
「…お褒めいただいているところ悪いけど、普段のボクはいつもキミから書類仕事が遅い遅いって文句ばかり言われているんだよ?」
「それはきっと“できない”んじゃなくて“やらない”だけだ。そうだろう?ん?」
なんて顔して笑うんだい、キミは。ねぇ東海道。
上越はもうデジカメを構えることすら忘れて、その笑顔に見惚れた。
それはつまり“やればできる”ってこと言ってるの?
暗に褒めてくれてるの?認めてくれてるの?
ねぇ、一体キミは本当にどこまで“東海道”なの?
本人にこんな質問をしたら、きっと第三者には滑稽極まりなく映るんだろうな。
山陽はなんて言うだろう──どんな“東海道”でも変わらず受け止めると言ったあの男は。
「分かるよ。たとえ記憶を失っていようとも。キミがとても優しく頭の良い男だということぐらいは、な」
「…何言ってんの…」
分かる?分かるって?
何が?
殿様新幹線のキミに、ボクの何が分かるっていうの?
馬鹿みたい。
もし分かった気になっているのなら、それこそキミが “かりそめの東海道”である証拠さ──
「……かわいそうな東海道」
「えっ?」
「本当に何も憶えていないんだね」
「…何のことだ?」
「東海道はね…本当の東海道は……嫌いなんだよ、ボクのことが」
「嫌い!?何故?」
何故、か。
どうして本人の感情を他人が──糾弾されるべきこのボクが代弁しなくちゃいけないんだろう。
「それはね東海道…それはきっと…ボクがちゃんとした高速鉄道じゃないからだよ」
本当に滑稽。
これぞまさにコメディの一幕。それもとんでもなく出来損ないの。
「……ちゃんとした?……高速鉄道じゃない?」
「そっ。ボクってダメなんだ、何をやっても」
「そんなことは…」
労わるような東海道の声。
でも既に上越は顔を伏せて視線をテーブルの上の自分の両手に移していたから──彼がどんな表情でその声を発したかを知ることはできなかった。
「可笑しいよねぇ?同じことをやってるつもりなんだよ?東北や秋田や山形や…山陽と同じことを。でもどうしてなんだろうねぇ…ボクだけうまく行かない。みんながやすやすとできることが、ボクにはできない」
一体何が悪いのか分からない。
どうして良いのか分からない。
目の前でどんどん大きくなっていく綻びをどうすることもできずただ見ていることしかできないはがゆさ。
「思えば最初っからだよね。開業だって、本当は東北と同時だったはずなのに、トンネル工事がトラブっちゃって5ヶ月も遅れるし」
「……」
「いざ開業してみたら、最初こそもてはやされたけど、今や東日本の主力は東北。ボクは利用者も稼ぎも彼の足下にも及ばない」
「……」
「おまけに、地震のせいで、日本の高速鉄道初の脱線事故だってさ。ははっ、ここまできたらもう…神様さえボクを見放したってことだよねぇ」
「……」
「どうしてこうなんだろうねぇ。どうしてボクだけみんなと違うんだろうねぇ。どっかでこう──ズレちゃって」
同じことをやって同じことができないなら、違うことをやるしかないじゃない?
たとえそれがさらに自分を周囲から浮き立たせる結果になろうとも。
いつか不要だと消し去られる日が来てもどこかに己の存在した痕跡を残して。
──ああ、ほんと可笑しい。
自分の気持ちをこんなタイミングで嫌というほど思い知ることになるなんてね。
「…分かったでしょ?ボクがいかにちゃんとしてないかってこと」
「上越」
「さ、もう行って東海道。ボクはしばらくこうして…休憩させてもらうよ」
「上越新幹線」
「サボってるの、東北たちには内緒にして──」
「──先ほどの話には続きがあるだろう?」
「…は…?」
「地震による脱線事故──しかし死亡者はゼロだった──違うか?」
「そりゃそうだけど………?………え?…………」
その場の空気までガラリと変えてしまう断固たる口調。
強い意志を表す声。
「くだらない」
──“東海道”?
机に突っ伏し、自分の腕の中に顔を埋めていた上越の肩がピクリと揺らいだ。